★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

相好を崩して田んぼに足をツッコむ

2024-08-23 22:58:03 | 思想


J・P・ヴェルナンの『形象・偶像・仮面』を読みはじめたが、「コレージュ・ド・フランス」の講義緑である。「はじめに」で、フーコーやレヴィ・ストロースと並んでわたくしなんかがこういうのだしていいの?みたいなことを言っており、それが自由をつかもうとする姿勢みたいで面白かった。しかし、本文はどこか格式張ったところがある。これに比べると、福尾匠氏の『非美学』(厚い)は最初から自由である。日本での文化はいつもこういう相好を崩したところがある。

相好を崩しすぎると、怪しさすらでてきてしまうので怪しまれていたのは、例えば松岡正剛である。明らかに東洋的な「やつし」系の文人気質なのに、ビジネスマンみたいでもあった(「活動」のあり方なんかも毀誉褒貶あったが、東浩紀なんかとの比較でいろいろ議論されるにちがいない――)からますます怪しまれていた。そして、レトリック系の批評家達の伝統にも連なりそうなので、松岡氏の本が修辞的だという印象はわからんでもないような気がしないでもない。が、文学研究で博識さと修辞とのあり方を永遠議論している(あまりしてねえか)ところからするとまあそれは何の説明にもなってないし、あれは、花田や渋澤系の過去のスタイルとも違い、――ネット時代以降に、ある意味これからくるものであったに違いない。しかし、結局それでも、あそこまでやる人物そのものの存在感が重要であることは変わりがない。それどころかますます稀少性があったに違いない。――しかし、本当のところいうと、結局、超脱の仙人のあり方を崩さない人としてあまり好きではない人々が多いのも理解出来る。支配階級に気に入られているという噂がタッタだけでだめだ。我々はもう少し田んぼに足をツッコんでいる俗な根性を保持しているからだ。

現代ではなかなか「やつし」ということが理解されないが、やつしは怖ろしくいろいろな意味で裸をさらす行為で、様々な人が根性を見抜かれてリンチにあった。で、やつしの手前で草庵で隠居することを覚えた文人達が大量にいるというわけであった。


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