彼はおのれら一族の運命をもそこへ持って行って見た。空の奥の空、天の奥の天、そこにはあらわれたり隠れたりする星の姿があだかも人間歴史の運行を語るかのように高くかかっている。あそこに梅田雲浜があり、橋本左内があり、頼鴨崖があり、藤田東湖があり、真木和泉があり、ここに岩瀬肥後があり、吉田松陰があり、高橋作左衛門があり、土生玄磧があり、渡辺崋山があり、高野長英があると指して数えることができた。攘夷と言い開港と言って時代の悩みを悩んで行ったそれらの諸天にかかる星も、いずれもこの国に高い運命の潜むことを信じないものはなく、一方には西洋を受けいれながら一方には西洋と戦わなかったものもない。この国維新の途上に倒れて行った幾多の惜しい犠牲者のことに想いくらべたら、彼半蔵なぞの前に横たわる困難は物の数でもなかった。彼はよく若い時分に、お民の兄の寿平次から、夢の多い人だと言ってからかわれたものだが、どうしてこんなことで夢が多いどころか、まだまだそれが足りないのだ、と彼には思われて来た。
月も上った。虫の声は暗い谷に満ちていた。かく万ずの物がしみとおるような力で彼の内部までもはいって来るのに、彼は五十余年の生涯をかけても、何一つ本当につかむこともできないそのおのれの愚かさ拙なさを思って、明るい月の前にしばらくしょんぼりと立ち尽くした。
――「夜明け前」
高松のわたくしの家の庭が昆虫や鳥たちの楽園と化しているのは、わたくしが虫たちをすきなのを知っているからだと母がまじめに言っていた。わたくしもなんとなくそう思うのである。小林秀雄に、母親が蛍として見えた(「感想」)のを読んだりすると、その虫――どことなく蛍が、美的なよそ者である気がしてくる。彼は江戸っ子の近代人で、結局虫そのものを好きではないんじゃないか。そういえば、夜中になると泣き出す幼児の私を虫封じの呪法に連れて行ってなんとかしようとしたらしい70年代初頭の両親であったが、わたくしの世代はギリギリ、そういうものを医学以外で処方しようとした世代にあたっている。――その際、神主とかがおこなう呪法とともに、頼んだ親も呪法もどきの祈りを行っているわけであろうが、前近代の習慣とも言い切れない。これはいまの「子供の目線に立つ」とか「寄り添う」よりもよほど強烈な情であろうが、やはりその現代の寄り添い教も、医学とは別種の呪法の伝統に連なる(科学のふりをしたバージョンではあるが――)ものであることは確かであろう。もっとも、より添いよりも虫封のほうが効く気がするのはなぜであろうか。おそらく、効くか効かないかといった疑問を消すぐらいの試行錯誤が行われてきた結果だからであろう。――すくなくとも、そう信じられるかぎりでそれは伝統であり信であった。そしてそえは虫の存在感を体が感じているかという問題そのものだ。
よく実家の軒をみたら、昔からの蜂の巣の残骸が釣り下がっているし、いまでもたくさんの一族が生活している。残骸の一部が、座敷の一部に飾ってある。かんがえてみると高校を出るまではそういう虫と一緒の生活だったし、いまも木曽の家はそういう感覚のなかにある。最近は鈴虫の飼育が盛んなので、家自体が鈴虫の鳴き声を立てているような雰囲気だ。たぶん、こういうかんじでないと落ち着かないのである。うちの姉妹たちも常に動物と暮らしていて、、ずっとまえから「ポストヒューマン」状態だ。実家の玄関を入ると、目の前に、なぜか妹が飼っている犬(つまりここにはいないのである――)の写真がでかでかと飾ってあり、孫とか子供の写真よりも優先されている。
うちの母は、庭に来ている鳩に餌をやりつづけて、何年か掛けて手から食べさせることに成功した。こういう粘り強さは教育者には必要だ。目標は設定してもいいけど時間を無視出来る勇気がないと、というのは教師の身につけるべき精神状態であろう。
すると、教育者として最も偉大な先人は、ファーブルということになるのであろうか。しかし、ファーブルは虫の好き嫌いが多い。