石神豊氏の論文を三本一気に読みくだす。わからないことがどんどんふえてゆく。逆に学生のレジメがあまりに明晰なので躊躇うこともあるが、今日は、モーリス・ブランショの「カフカ論」がとつぜん引用されていたし、よいことにするか。。。
わたくしもポストモダン系の文化のなかでそだったせいなのか、複雑な明晰さを目指す癖があるが、それにしても40年ぐらいたってコロニアルだか何やらの知恵をつけて更なる天井に飛び上がった――蓮★系というか、そういうひとたちが何がイヤて、人をほめるときのセンスがいやである。大げさで自分を同時に揚げるしぐさが詐欺師らしくおもわれる。まあなんだろう、結局、これは学閥というものであろうか。
私は、今日、私史上初、上野千鶴子について講義した。そろそろこの分野についてもモノを書くべきかと思っているからである。
『聲℃said』 8号 を読んでいると、さすがにアカデミズムのなかの動向について反省復習ばかりするのがばからしくなってくるが、わたくしが目指しているモンテーニュだって、あまり自分の属している世界から逃避しているとはおもわないのであろう。むしろ城を守るタイプがはじめて自分を描くことができる。カフカの問題にしていたのは、我々が現実への解釈を自由な連想へ繋げがちである事への批判であったようにおもう。現実には解釈(内省)をいれる余地がない。疑問を解こうとすることしか出来ないが、それを現実だと納得できることはない。
あなた(大江健三郞)の「性的人間」でいちばん感動したのは最後のところで、[…]もっとも危険な破滅的な痴漢的行為をする。あれがとてもいいし、そこらのどんなサラリーマンの心の底にもひそんでいる人間の真実だと思う。
――三島由紀夫「現代作家はかく考える」
三島はこういうことを「人間の真実」と言ってしまう。カフカは毒虫を人間の真実だとは言わなかった。三島の書くこととやることはいつも解釈の自由へスライドしようとしていた。