★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

注釈的・真逆的

2025-02-18 23:44:38 | 文学


 やがて急ぎ縫ひかけつるほどに、北の方起きて、「縫ひさすと見しを、まだしくは、血あゆばかりいみじくのらむ」と思して、「縫ひ物賜へ。出で来ぬらむ」と言はせたまへれば、いとうつくしげにしかさねて出だしたれば、本意なき心ちして、くちをしく、「いかに出で来にけむ」とて、やみぬ。

最後の「やみぬ」について、新日本古典文学大系は「話型的には一つの難題が解かれた感じ」と注をしている。注釈の本というのはこういう問いを放り投げるという趣がある。もちろん、何かを論じるにはこういうことが安定にも繋がるのであるが、かえって作品が謎に包まれることが屡々である。その謎を作品そのものの存在で意味ありげにとじてしまうやり方があってそれがエセーというものではないだろうか。

来年度は、自分の文章に注をつけていったモンテーニュのエセーといくつかの日本の随筆を比較して何か考えてみたいと思っている。

モンテーニュを読んでいると、彼が過去の出来事が現在によって次々に変形してゆくことをよく知っていたように思われてくる。それを現在によって注釈する形で表現しようとするとエゴイズムになる。そのかわり過去によって変形するとどうなのか?モンテーニュの表現しようとした「わたし」は、そういうエゴではない「私」の原形みたいなものなのかもしれない。歴史の相のもとでみるとは何なのか、むかしわたしもそういうことを考えたことがあった。

むかし。大学院に行って、学問とか好奇心ではなく、褒められるまで教育を受けようというモチベーションというのは、案外大学院生に共通するものだという気がした。箔をつけるよりイイノカもしれんが、それはそれで何かおかしい。学歴ロンダリングみたいなものが定期的に話題になるたびに、そう言いたがる人間がどういう人間・現実に出会っているのか想像することも大事である。大概は、ただの怨恨だとしても、怨恨の周囲にいろいろなものがある。ほとんどのひとは、そこから自分だけの「わたし」しか見出さないが、わたくしは不肖の文士として、目的に憑かれた学者という原形をみいだすのである。ゆえに、――わたくしが権力者だったら、人類の進歩のために学問をやってますという学者を解雇する、日本のために学問をやってますという学者を追放する、そして残った目的がない学者を一年間試験監督の刑に処す、みたいな妄想さえする。論理的には、私には権力者は無理である、となるが、その結論のほかに、学者が権力を持って目的に奉仕している様が浮かんでくるわけである。

本当は、文士全般が持っている「汝の感情や論理や欲望に忠実たれ」という側面に対して、文士的学者に必要なのは、元も子もない「汝を知れ」というユマニズムなのであるが、それはかなり昔に滅びたらしい。その原因がたぶん通俗的な相対主義である。それがなんなのかは分からんが、「お前が言うな」という伝家の宝刀を失効させた罪は重いと言わざる得ない。それはほんとは相対主義ではなく、本質的な批判にたいして心理的に軽く扱ってどうでもよいところでお茶を濁す処世術だったはずなのだが、それをただ単に嗣ぐ人はそれがわからないのでお茶を濁していた方を本質だと錯覚、というか――お茶を濁すほど簡単な事柄が多いので居丈高に騒いでいられるわけである。平たく言うと、結局それは馬鹿の台頭である。で、今度は形式論理的なことって馬鹿でも分かるからな、という批判が形式的に起こり、本質的なこととか人としてのコミュニケーションを大事にしようと「逆」に振ったら、こんどは字が読めないとかそのまま受け取れないなどの基盤的な崩壊がおこって今に至る。

「真逆」という言い方が定着して行く過程は、我々の社会が、葉蔵もびっくりの常に対義語しか浮かばない失格状態に突き進む過程だったと思う。


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