何かの座談会で、マーラー好きとブルックナー好きは完全に分かれており、特に後者が好きな場合前者を聴くことはない、と言っていた人がいた。言いたいことはなんとなく分かるが、現実には嘘だと思う。マーラーはこけおどしだがブルックナーはそうではない、プロコフィエフはメロディアスだがショスタコーヴィチはそうではない、……こんな言い方もそうである。嘘をつけっ。
というより、嘘をついているつもりではないのだ。対象をできるかぎり総体として捉え得る能力は、音楽に限らず訓練によってできあがってくるものだ。私は楽器演奏などをやめてしまって久しいが、どうもこの頃、音楽を聴いていても音がきちんと聞こえているか自信がない。確かに音自体は聞こえているに決まっているが、私の言っているのはそういう意味ではない。対象が文章の場合は、もっと露骨にそうである。基本的に我々は、知っていることが書いていなければ認識できない。学生の論文を読むときですらそうだ。文章の言いたいことに耳を傾けられなければ我々は学者として終わっている。それを、社会党的な善意だとか(違うかw)、対象を神秘化してはならぬとか、否定神学的な構えはよくない(これも違うかw)とか言っているうちに、サマリーか三分間録音程度の集中力しかなくなってしまうのだ。あとは、音楽や文章などの形式をあげつらったりするだけになる。作品は読者や聴衆に対するサービスじゃないんだよ……。難解さに対してナルシシズムを見るナルシシズムには、いい加減飽きがきたんだけども。
というようなことを、今日、シュレーゲルとかフルトヴェングラーの長~い作品に触れていて思った次第だ。あ、シュレーゲルは断片が多いから長いとは言えないか(笑)昨日再読した、芥川の「浅草公園」も断片の積み重ねだけど、断片を積み重ねると異様に長さが増幅されているような感じがするねえ。それにしても、フルトヴェングラーの交響曲は、BGMとして結構いけるっ。フルトヴェングラーは、他人の作品の演奏の時には聴く側を音楽だけに縛り付けようとする癖に、自分の作品はそうでもないのはおもしろいなあ。彼の文章を読んでもそう思うのだが、彼は他人の作品の奥底まで、あるいは世界の果てまで行こうと努めていたので、自分の奥底の方はどうでもよかったのではなかろうか。今日読んだシュレーゲルに関してもなんとなくそんな気がした。私は、かかるとき、ロマン派のイロニーを、それに対して持ち上げられてきたユーモアに対して評価する道はないかと考えた。