★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

唯物論的なイエス

2011-02-11 07:01:53 | 映画


卒業論文と雪景色に頭がぽっぽかしていたので、バゾリーニ監督の「奇跡の丘」を観る。ウェーベルンやプロコフィエフの音楽が、いかにも「はいっ、それっ」という感じで入ってくるので、面白かった。で、その描かれたイエスの生涯であるが──田舎で少人数に布教していたときは能力全開であったが、故郷では単なる大工の息子として馬鹿にされ、母を捨て、しまいにはエルサレムで官僚と群衆に喧嘩を売ったら、案の定吊されてしまった、という意地悪くみればよくありがちな戦闘的唯物論者(というのは、イエスは旧約聖書に書かれていることを物質的に「実現する」ことを目的としていたのだから……)の一生とみれなくもないのだな、という感じである。これにニーチェの「アンチ・クリスト」的な観点を導入するとどういうことになろうか……そんなことを考えながら観ていた。

もちろん私は、花田×輝の「女の論理──ダンテ」でのイエスの扱いも想い出した。花田は「女」の論理としてのレトリックを語ったついでにイエスの名を口にしてしまった訳だが、バゾリーニのイエスは、まるで群衆を非難し鼓舞する如く語っていた。浅田彰がどこかで言っていたようなきがするが、確かに、そこには、これは新左翼的なロマン主義というより、旧左翼のごつごつした感触がある。このような作品からしか、ロマン主義を批判することはできない、とそう感じた次第だ。……このことは論文で語ることにしたい。