★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

賭博と八百長とわたくし

2011-02-05 13:05:58 | 文学
相撲界の はっぴゃくちょう や かけひろし が話題になっているが、そういえば、私のお爺さまお婆さまなども、荒瀬対なんとか山でトトカルチョをやっていたなあ。そして実際にお互い金銭を巻き上げていた(←10円ぐらい)のは言うまでもない。

昔わたしも、千代の富士対キタの湖などで賭をして負けた。私は相撲取りというのは、目つきがこわくて太っている方が強いと思っていたので、キタの湖に賭けたところ、もっと目つきが怖い痩せてる方が勝ってしまったのである。キタの湖ではなく、スポーティな千代の富士を応援してしまい──しかも彼の八百長疑惑までくっつけて騒ぎを維持するというパターンに陥った──我々のメンタリティが、いまの相撲界のどたばたの発端を作っていると私は思う。もっとさかのぼれば、「巨人大鵬卵焼き」などという、シュールレアリスム的コラージュがまずかった。いくらおいしかったからと言って、三つ目はいきなりサイズが小さくなりすぎではないか。何でもかんでも小市民のサイズで考えるのはいい加減やめてくれや。「不自然にふとってるけどなんか憎らしいくらいツエええ。絶対、イナゴ並みの死に神じゃ、とりあえずおがんどくか」とか畏怖していた方がまだよかった。だいたい神さまの行状がめちゃくちゃであるのは、神話などで周知の事実だ。……というのは冗談であるが、私はその賭け事で負けたあと、金銭を払ったかどうか覚えがない。たぶん、宿題を肩代わりしたのか、ウルトラマンの怪獣のゴム人形のどうでも良さそうなのを相手に押しつけたのであろう。キタの湖の勝利の価値がそこまで下落していたとは……。

賭け事と言えば、大学でもよく行われている。

「あいつ、学部長狙っているよな、賭けてもいい」
「あいつ、××ちゃんに気があるよね、賭けてもいい」
「あいつ、さっきズボンのチャック空いてたよね、賭けてもいい」
「あいつ、また婚活に失敗したよね、賭けてもいい」
A「ぼく、君を命賭けて守るよ」B「お断りします」
C「昨日、歯が欠けた。」

……全員逮捕した方がいいな。

とりあえず、賭事のことを偉そうに語っている文化人たちは、ドストエフスキーの「賭博者」とゴーゴリの「賭博師」ぐらいは暗唱してるんだろうな。無理な人は、ショスタコヴィチの「賭博師」を全て歌えることで許すっ。「谷風の人情相撲」的なメンタリティではもはや問題は片づかぬ。お相撲さんには、公務員試験を受けて頂き、もっと近代的悪事で前近代的な悪事を粉飾する方法、あるいは感動的破滅で文学者の心を引き寄せるやり方を学んで頂くのがよいのではなかろうか。その結果、生まれるのが下のような力士であろう。

土俵入りの時にストレスで注射を打って貰っている渡邊シロ山(公務員試験合格。当然給料は幕下以下でもけっこう出るから独身なら大丈夫っ)



とはいえ、相撲の八百長でこんなに大騒ぎしている我々の国は、もはやスポーツというものを本質的にいやになってきているのではないかと思うのだ。スポーツにしてしまえば、外国人の方が強いに決まってる。大鵬だってハーフだったしね……。それよりは、八百長だ、人情だ、根性だ、努力だ、暴れん坊だ、品格だ、ちゃんこ鍋は商売には向かん、裏にはヤクザが……と言いながら言葉で遊んでいた方が少なくとも「国技」という感じがするからなあ。ナショナリズムを抜いたナショナリティをどう定義してよいか分からなくなった我々は、必死にいま落語や歌舞伎の世界に遊ぼうとしているが、いままでのなんちゃって近代教育のおかげで錯乱しているに過ぎない。──無論、これは希望的観測に過ぎない。我々の文化はそこまで豊かではなくなっている。