↑
「公正な競争が行われないのは許せないっ」と吹き上がりつつ負け続けな人を、正義バカが倒す図
たとえば、推薦入試は、公正な競争にあたるであろうか。人によってはある種の八百長に見えるであろう。弱者救済なんだからなあ八百長じゃない、と言っても納得はしないであろう。しかしかかるレベルの「ずる」の類は、競争が肥大化してゆくと人間社会では必然的に出てくる技なのである。そもそも競争の前提や過程自体に不透明な要素がありすぎるのが人間社会であって、例えば点数を競う学力テストが「本当に」公正で平等な競争になっている訳がないではないか。原理的に競争というものはその程度のものである。
自分を勝ち組だと思っている人は、それ故、不透明な要素を必死に消しにかかる。或いは認識しないように努力するようになる。あるいは、そんな不透明な要素が単に見えない粗雑な神経のやつに限って勝ち残ったりしてしまう。かかる人間はどうみても尊敬に値しないので、負けたやつの怨みはつのるばかり。
私が思うに、この怨みをきれいにはらす道は現実には存在しないと思う。そもそも公正な競争が存在してないから、公正な復讐もありえない。何かによってなんとなくはらされる他はない。そのなんとなくの道が次のような文章(「にごりえ」)を読むことで成されるような気がしてならぬ。
「仕方がない矢張り私も丸木橋をば渡らずばなるまい、父さんも踏かへして落てお仕舞なされ、祖父さんも同じ事であつたといふ、何うで幾代もの恨みを背負て出た私なれば爲る丈の事はしなければ死んでも死なれぬのであらう」
こう思うお力はあっけなく死んでしまうが、「恨は長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き處より、折ふし飛べるを見し者ありと傳へぬ。」
これは共同体による追悼でもなくイジメでもない。我々の恨みはこんな具合に、誰かの伝聞にのせて人知れず消えてゆく他はないのではなかろうか。あるいはそんな文章を生み出したり読むことでしか消えないのではないか。