★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

悲しみは×松で幾歳月

2011-02-24 23:40:20 | 映画
今日は、「尼提」、「年末の一日」、「点鬼簿」に頭を使った。疲れた。

……明日は二次試験である。

で、英気を養うために、「喜びも悲しみも幾歳月」を観る。主人公の灯台守の夫婦が最大の悲劇に見舞われるのが、彼らが男木島灯台にいたときである。×松の高校に通っていた息子が不良(!)に刺されて死んでしまうのだ。「二十四の瞳」で×川県を持ち上げておいて、この仕打ちはひどいっ。木下恵介監督、あんたはひどいっ。監督は「二十四の瞳」の子役たちの演技が下手なので、かなり怒っていたらしいのであるが、その仕返しであろうか。

夫婦の一代物であるが、二人が年老いていくところまで描ききらないのがよいね。新婚旅行に旅立つ娘の乗った客船を、灯台で見送り、泣きながら「もうこれでよい」と言うきよ子(高峰秀子)に対し四郎(佐田啓二)が「俺はそうは思わないよ、これから楽しいことがあるような気がするよ」と言うのだが……。最後に旦那、はじめていいこと言ったっ!。といっても、結婚してすぐにも殆ど同じことを言っているんだがな……。しかし本当に苦労した後では言葉の輝きが全く違った。そこで、明らかにこれからも苦労続きである彼らの幾歳月が、暗から明に反転するのである。我々がしばしば忘れてしまう、心の傷が消えないにもかかわらず苦労が報われるということの意味を、こういう映画は教えてくれる。それでも心が晴れないときもあろう、そんなときはそれを吹き飛ばすごとく霧笛をならせばいいらしいぞ。私は納得した。

結論:いつも俺だけが儲かりますように、と願っている私は反省しろ、真面目に働け!

芥川龍之介対フルトヴェングラー

2011-02-24 06:01:02 | 音楽


芥川龍之介の「尼提」などを読みながら、フルトヴェングラーの第2交響曲を、朝比奈隆と大阪フィルの演奏で聴く。どことなく意地悪な芥川に比べて、フルトヴェングラーの真面目なところはよいです。先日BGMなどと言って申し訳ありません。求道者的なワーグナー、無神論者ブルックナー、禁欲的なチャイコフスキー、打楽器が嫌いになったマーラー、循環形式はもういいよと思ったフランク……などの魂の数々が活き活きとうごめいているではないかっ。なんとなく、諸井三郎の交響曲第3番のような響きもしているし、私が高校時代に創ろうとしてた交響曲にも似ておるぞ。盗作か?

朝比奈隆の演奏は、世に言う朝比奈教の人達が「尼提」の釈迦以上に不気味だったので、あまり聴いてなかったのだが、これはいいではないか。フィナーレは本当に感激した。これに較べると、マルティノンの交響曲第2番のフィナーレなどちゃらちゃらして聞こえるなあ。フランスはナチス協力をちゃんと反省せずに勝利したのがまずかった。というのは冗談だが、やっぱり国破れて山河ありという境地の中で交響曲は書かれるべきであるなあ。カダフィの国とか、あそこあたりの作曲者のみなさん、傑作を書くときがきましたっ。

芥川龍之介は、やはり関東大震災で動揺している場合ではなかったぞ。東京大空襲のあとで第二の「河童」や「蜃気楼」を書くべきであった。