★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

専門バカ(←死語

2011-02-16 23:33:48 | 思想
そういえば、私は91年の大学設置基準の大綱化以降の第一世代である。哲学とか文学とかいう教養教育はいらんから大学で勝手に解体してよかろうよ(というか、役に立たないようなイメージがある課目はやめろ)ということだ、と当時の教養科目「哲学」の教授が、非常にやる気なさそうに言っていたのを今でも想い出す。で、あるとき、事務だったか教官だったかに、教養教育について学生の意見を聞きたいので、なにか400字ぐらいで書いて下さいと頼まれた。私は今もそうだが非常に思い上がった学生であったので、「専門バカは世の中で最も使えない人種である。この大学にもたくさんいる。」とかなんとか書いたような気がする。案の定原稿は不採用になって、「社会に出たときに役に立つような教育を広く受けていきたいです。」とかいう誰かの意見が大学の広報誌みたいなのに「学生の声」として載っていた。

今日は教×会で、いつもに比べると集中して議論を聞いた。いつものように、「学生の質的保証」とか、「学生の利益」とかいう言葉が飛び交っていたが、かかる言葉で使って何かの理屈を組み立てられること自体が私にとっては驚異である。大学時代、柄谷行人の「形式主義」に関する議論から、文学に於いて本当に内容をカッコに入れた形式主義は成立するのかとか、文字通り形式的な夢想で堂々めぐりをしていた私にとって、内容をカッコに入れた理屈が本当に飛び交っているのでびっくりしてしまう訳である。という感想は、まさに内容をカッコに入れた言い方であって、本当は、小×生の作文じゃあるまいし……というのが感想である。

学生の卒業論文もただ劣化していっているのではない。その形式論理的な頭の固さはなんちゃって形式主義のおかげだ。形式論理は、単に頭の悪さからではなく、社会か何かから命令され脅されているときに発生する、そして脅迫されているのに、されている本人のプライドがふくれあがっていくのも特徴である。これが専門バカの実態である。即ち彼らは閉じているどころか、社会に開かれすぎているから専門バカなのである。

小・中学校教員になるための特化した専門性などというものが、純粋な形で存在するはずがない。仮に存在していたとしても、それを必要最小限な形で学生にインストールできるはずがない。そんなことを考えはじめたから、ますます必要最小限ですらない学生が増えているとしか思えん。小・中学校の教員になるためには、ひたすら一見実践とは関係ない学問を吐くほどやりつづけることが必要であるればよいし、あとは自分で考えるしかない。あせってもどうせうまくいってないじゃん。それをいつまでも「勉強だけできてもしかたない(きりっ)」とか興奮、妄想しているからおかしなことになるのだ。「勉強」とか言っているところがもうアホっぽいけど、まあそれは置いといて……、そういうことを妄想するする人間はきまってその所謂「勉強」すら苦手な人間である。要するに、単純な代償行為を求めて学校の先生になられても困る(笑)いや、困らない。本人が勝手に考えればよいと思う。