★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

反=地上派デジタル放送論

2011-02-07 19:45:00 | 思想
政府か何かの脅迫に屈し、というか、なんか勝手に工事が始まったんだが……地上波デジタル放送の工事が終わって、さっそくつないでみた。

画面がでかいっ、クリアすぎて、アナウンサーの細胞まで見えたっ。

ああびっくりした……

思うに、白黒テレビの時代、いくら女優が美人だと言っても、ほんものよりはかなり不鮮明だったし、映画館に行っても、今度は高峰秀子がゴジラ並みに巨大だったりして、本物はさぞ……という感じだったに違いない。対して鏡で見る自分の醜悪な顔の方がかなりリアルであった。映像の美が形而上的な何かを喚起していたのに対し、我々の顔は単に現実であったから比較しても意味はなかった。しかし、果たして今の時代、デジタル画像の方が、鏡の中の自分の映像と同等、あるいは高い解像度があるのではなかろうか。あまりデジタル画像で整った顔ばかり見ていると、自分の顔が怖くてみられなくなる日も近いっ。もうこうなったら自分の顔もデジタル処理できるような技術を開発するしかない。



自分の顔を鏡で瞥見し続けて××年の渡邊史郎

ときどき、自分の顔をきちんと見てから偉そうなことを抜かすべきであると反省させられた地デジ導入であった。

結論:この調子では、私の好きな教育テレビの昆虫番組は怖くて観られない。観たら確実に、グロテスクな映像で失神する。

常念岳と天使の輪

2011-02-07 19:11:22 | 日記


父が送ってくれた常念岳の写真。塩尻で撮ったらしい。母が育った松本中山の家からは富士山のように見える(だったような気がする)。夏になると、常念という坊さんのとっくりを持った姿が雪渓に浮かび上がるという──「Xファイル」のモルダーとスカリーが聞けば必ずアメリカ政府の陰謀を暴きにやって来るレベルの山である。



あ、天使の輪の寿命が切れた……ので、スイッチにぶら下げてみた。

初夜──主体的創造的開国的w

2011-02-07 04:05:00 | 文学
三浦哲郎の「初夜」を読む。あいかわらず、煩悩の化身のような主人公であるが……、というのは冗談である。が、煩悩というのは、人物の中にあるのではないのだ。どこかからやってくるようなものである。主人公が大して悪い人ではないのがその証拠だ。文学を読むときに気をつけなければいけない、というより人間を観るときに気をつけなきゃと私が考えているのはそのことである。主人公は自分が子どもを持ちたくない理由を血か何かのせいにしているが、父親が死に就職に失敗するとなぜか、まあいいか、みたいになる。とにかく、主人公の思考過程は今からみると何を考えているのかよく分からないところがあるが、要するに、なにか名状ならざるものに動かされている、というより、その程度に我々の人生は細切れに一貫しているので、全部説明しようと思うと自己欺瞞に陥る、と言った方がよいであろう。三浦氏の私小説だって自己欺瞞的なのだろうが、我々がよくやるいかにももっともらしい自己合理化はやっていない気がする。前者は煩悩に振り回されており、我々は処世に振り回されている。我々は最近、人物の中に諸要素があり、そのなかに悪いものがあれば、人物全体が汚染されていると考え勝ちになっているのではなかろうか。だから形式論理的に自らを過大評価したり過小評価するようになるのだ。

と思っていたら、また「「大学生は主体性が足りない」 経団連、企業アンケート」(asahi.com)などという記事が目に飛び込んできたので暗澹とする。この前、就職活動の開始時期を遅らせろとか大学側が言っていたので、それへの反撃であろうか?

それによると、求められている素質としては、「主体性」(89.1%)と「既存の価値観にとらわれない発想ができる「創造力」」(69.3%)だったそうであるが、ここから私が思い浮かべるのは、前提を疑ってかからないのでなんでも素早く動ける(主体的)、既存の価値観すら理解できないところの──だめなタイプとして分類不能な(独創的)人間である。昔よくいた不良グループの中のパシリだろうな、一番近いのは。で、望まれている授業としては、「学生に体験活動をさせる授業など」であり、「教員が一方的に講義する授業への不信を示した。」らしい。要するにあれですね、勉強がよく分からないので、外で遊びたいんですね。もしかしたら文化大革命でもやりたいのか?

主体的文化大革命ですか……。北朝鮮と中国を混ぜたい訳ですね、分かります。

私が今まで会った企業人たちが、さすがにこんなアンケートから出てくる結果のようなことをまともに考えているとは思えない。口では主体性が~、創造力が~、とか言ってはいても、仕事の内実に関連してそんな妙な言葉は出てこない。いや、出てくる奴も居たわw

例のTPPの議論にしても、専門家じゃないから「疎いので」さっぱりだが、「第三の開国だ~」とか「外に開かれた~」とか連発するのはやめてくれェ。第一と第二が何を示しているのか知らないが、多くの人数で競争すると悪貨が良貨を駆逐し、内輪でたいしたことのできないのが外に行って偉そうにしてもダメなもんはダメというのが、最近二〇年で私が得た真理であるわいな。

結論:内部とか外部とか、主体とか独創的とか、かけだしの文学青年みたいなレトリックをなぜ文学者でない人達が使っているのか、大いに不満であるっ。