★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

我が帰省2011 は

2011-09-07 08:40:24 | 旅行や帰省
おはようございます。肌寒い朝です。隣の開田高原は日本一寒かったそうです。12度ぐらいか…



 
朝顔は今朝も元気である

川側のプチ農園に行く
      

八沢川をのぞく
 

中庭のプチ農園に行く


左むけ左っ


右むけ右っ


キッチンから朝顔を望む
 

…ご飯を食べる

我が帰省2011 家族でお散歩

2011-09-06 18:27:51 | 旅行や帰省

八沢川増水


線路沿いをぐいぐい進む渡邊ファミリー

  

高瀬家の前にて。藤村の「家」に出てくる高瀬家からの木曽福島町はこんな風に見えていたのかもしれません。


全国でここが一番よいと選んでこんな家を建てた人が最近いたそうです。ますます不思議の町になっていってるな…


高瀬家前をずんずん進む渡邊ファミリー



関所前に到着


家の父と母が草ぼうぼうのこのあたりを勝手に草取りしたらしい。コミュニタリアンの方々、観念的な議論をやめて草取りしろ!


関所前から国道側に降りていく渡邊ファミリー


こんな道があちこちにあるのが木曽町です。

さあ、やってまいりました。天下の木曽川です。淀んだどぶ川みたいなのを川だと称している四国の者ども、よくみろよ、こういうのが川というのだ。

 
橋の上から北方を眺む

 
橋の上から南方を眺む


ブレイク…転落人生


ブレイク2…関所を川から望む

 
木曽川の底は竜宮城とつながっているのは定説である。


別の橋から南を望む

中山道に進入。上之段地区を昇る。ここで、逃げた罪人も疲れてしまうのだ。


罪人は右手上方をみる。覆い被さるような山が彼の人生を後悔させる。



疲れた罪人は、ちょっと手を洗ったりして我に返る。


左手に曲がった。俺の人生もこうやってねじ曲がっていったのだった…と彼は思い焦る。

 
パンフレットによくある水場。昔はこの水でいたずらしたものだよ。


空き地に倉


下り坂に水場。左には母の手。

道は更に左に曲がってすぐさま右に曲がる。行く人は完全に方向感覚を失う。

みえてくるのは八沢漆器の店。


ここが例の八沢橋。宇之吉が人を切りまくった所である。


八沢には牢や刑場もあったというが、…というわけで関所につらなる実に血なまぐさいところでもあったのだった。

我が帰省2011 木曽町植物辞典

2011-09-06 18:15:21 | 旅行や帰省
家族で散歩にでました。


コスモス

 
ススキ

以上、夏季休暇で帰省したのにすでに秋だった件


セイヨウヤマゴボウ(食べられません)

 
ハギ


ゲンノショウコ(薬用)。昔、戦後の小学生はこれを集めて売り図書館の本などを揃えたのである。


イチイ


これもハギ


コウヤマキ


ひまわりと蝶蝶


母も知らない西洋のなにがしかの花

我が帰省2011 い

2011-09-06 17:48:51 | 旅行や帰省
 
新宿からバスに乗ったのである。木曽福島行き。乗客6人ぐらい…

 
釈迦堂サービスエリア。縄文の観光地になっているとは知らなかった。


乗っておるバス

 
富士山に張り合って頭を割られ、八つに分かれたという八ヶ岳。富士山の横暴は目に余るな。

   
諏訪湖サービスエリア。秋の花火大会には、この辺は阿鼻叫喚の地となる。


犬にもサービスエリア


木曽路に突入。


はいはい閉所恐怖閉所恐怖

      

分け入っても分け入っても分け入っても分け入っても青い山…すらない

 
奈良井の橋。この橋に釣られて老夫婦が降りていった…

 
木曽は山の中である。文字通りの山の中に突入。

…実家に着きました。

浅草に来ておる

2011-09-04 20:23:26 | 旅行や帰省

いつも泊まっている一富士旅館です。よいとこです。


この天井が実に落ち着きます。

 
改修されたのでとっても明明としている


こんにちは


メタボリックシンドローム


ちょっとご飯食べてくる


塔と月

疲れたので寝る。

光る知的暴圧

2011-09-03 04:55:14 | 漫画など


『がきデカ』以前型山上たつひこ氏のポリティカルフィクション。ある疫病が原因とされる「奇形児」たちが隔離された島があったが、それは米軍の科学兵器開発によるものだった。それを隠蔽し、果ては日本の兵器全てをコントロールするコンピュータを日本の地下で完成させた米軍。戦後30年経って日本は国防省をもつ文民統制がきかないレベルの国となっていたが、安保改定による米軍撤退は、アメリカが日本を防共の軍隊として完成させることを意味していた。そのころ東京で死者20万を超える大地震があり、治安維持を目的にさらなる軍国化が進んでいく……(ある老人がかたるところによれば地震すらも日本人のいままでの何かのつけらしい)。つまり国内で反軍国主義だ反共だと騒いでいたら、実はアメリカの掌で踊っていたでござる、というのがこの物語のポリティカルフィクションとしての筋である。しかしマンガの中心は、ある軍人の家に生まれた次男坊がそのなかで右往左往する姿である。おわりまで読んでみると分かるが、主人公が政治的に為したことは何もない。両親や兄や友人達は、いろいろな意味で政治的に重要人物となり殺されてしまう。しかし主人公は、その彼らを結局見守るほかない人物である。その彼が地震か何か(原因は分からない)で、恋人を殺され、彼女の頭蓋骨を抱いて自らを失った姿で地に沈み込んでいくところで物語は終わる。

いろんなことを考えさせる作品である。最近は、安保のごたごたを国内の右左の伝統的な病癖として語り、だから右左を超えた姿勢でのぞまにゃなどとしたり顔で言う連中が学者にさえいる。安保闘争は文字通り国際問題を扱っていたのであり、もっと言えば日本が米国の完全な属国であることに対する問題を扱っていた(一応)。左にすら評判の悪い「軍国主義」というレッテルが生じた意味もその文脈で理解する必要が一応ある。戦前の日本が国家社会主義や金融資本主義や全体主義に近かったとしても軍国主義ではなかったという議論があるが、「軍国主義」ということで何を意味しようとしていたかは別問題である。要するに、この作品で描かれているような、軍人や官憲の暴力の横行やメンタリティは、上の「~主義」といった体制の問題とはさしあたり別に論じられるべきであろう。最近、梅崎春生の軍隊ものを読み返していて、やはり同じ感想を持った。この作品にえがかれているような、敢えて言えば、ナショナリズムの本義をわきまえない──異物や外敵は殺してかまわない式の軍人達の生き残り(すなわち、彼らはその時点では普通の市民であるが)が平気で存在していて、大して戦時中ともかわらないことを言っている状況がおそらく存在していたのである。相手が暴力的なので、それに対抗するためにも暴力的になるしかないのではないか、という発想のなかでしか「軍国主義」や「暴力革命」といったレッテルは有意味ではないが、――それがリアリティを持った現実があった、あるいはそのリアリティを観念として生じさせる何かがあったと推測すべきではなかろうか。戦後は左翼的なものが優勢で、それを乗り越えていったのが80年代以降である――はずはない。むしろ、ずっと生き残っているのがおなじような暴力的市民であって、ずっと事態は変わっていないというべきかも知れないのだ。勝手に転向して成長した気になるエリート達が「認識の空気」を変えてしまうだけなのかもしれず、――いや、本当はアメリカが変えているだけかもしれない。

以前、ある同世代の業績豊富な(笑)学者と話していたら、現場の教員の新人教育力が落ちているのでそれを大学がそれを担う必要がでてきたとか言っているので、はいはいまあそうかもね、と相づちを打っていたら、現場の教員が何も考えずとも上手くいっていたのが戦後であってこれからは違うなどと言い出した。冗談ではない。あまりにも歴史を知らなさすぎる発言である。研究者の業界には、この程度の連中がおそろしくたくさんいるのではなかろうか。文学をやっていれば、万葉集は現代文学に較べてレベルが低いなどと言う発言はよほどの馬鹿でない限りなされない。万葉集は我々と別次元の教養によって成り立っているし、それ以前の木簡類でさえ我々より遙かに高度な中国語漢文の教養に支えられているかも知れないことは、我々がそれをしっかり認識できなくても自明の可能性だからである。これと同じことが、いわゆる「戦後」に対しても言えるし、過去の教育についても、自分の過去についてもいえる。

なぜ、かように過去や他人を簡単に片づけるようになってしまったのか(ちなみに、「光る風」でテーマになっているのはそこであり、それがファシズムの本体なのである)、いろいろ理由があるであろう。研究者の業界でいうと、学部・大学院を通じて論文を生産し就職することを目的としてしか勉強させられていないのが大きい。もともと専門性の閉鎖性があるのではなくて、閉鎖的に勉強しないと論文をコンスタントに生産できなくなるから閉鎖的になるのである。前にも書いたかも知れないが、論文を書いている途中で、ヘーゲルやらマックス・ウェーバーや漱石をよんだら書けなくなってしまうことがあり得る。そうでは困るのではじめから関係なさそうなものは読まないのである。それで、フッサールを知らない現象学者や、ルーマンやギデンズは読んだことあるがウェーバーを読んだことないかもしれないとか、宮台真司やアンダーソンをかろうじて読んだことあるがルーマンはよく知らんとかという自称社会学者が出てきたり、スガ秀実は読んだが、江藤淳はいまいちよんでないとか(←あ、これ大学時代のわしや)、鴎外を読まずに村上春樹を論じる国文学者がでてきたりするのだ。文系の学者なのにドストエフスキーを読んだことないとか威張っている人をこの前目撃した。まあいいけどさ、威張るなよ。教養がありゃいいってもんじゃないという人は学者にも多いし、確かにそういう側面もある。ある部分の無知が意外に研究を進めることがあるからだ。が、最近は単に教養がないことと常識を疑っていると称していることが重なっている人物が増えてきているように思われる。つまり、そういうことだ。転形期には動物的なものがその原動力になり、硬化した知的制度を粉砕する、そういう側面がある。しかしそれはそういう側面があるというだけの話だ。あるいは、確かに教養体系が変わったのだということも言えるのだが、半分嘘だろそれは。わしゃ騙されへんで。単に曽呂利新左衛門や猿飛佐助がトトロやガンダムになっただけの話でしょうが。かくいう私も学位取得後、読んだことのないものが多くてつくづく自分に絶望している。

「原子力村」とかなんとか村の閉鎖性は、内実は二の次の論文生産体制を破壊しなければ絶対にどうにかなるもんじゃない。一生懸命研究をしてくださいという叱咤、あるいは自分は一生懸命研究だけはしているという自負が、負の方向に働くことがあるわけだ。自戒を込めてそう思う。