★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

北辰斜めにさすところー、そりゃっ

2014-08-18 03:19:01 | 思想


第七高等学校のOBの話。
ナンバースクール出身者がほとんど居なくなってしまった現在、本当はどうだったのかを知ることは難しいだろう。帝国大学とは違って「自由」の気風があったとも言われるが、無論、そんなに事態は単純ではない。近代文学にでてくるナンバースクールをみるととてもそうは思えん。いまだって、エリート高校の中にはナンバースクールと似たような雰囲気を持つところがあるのかも知れないが、結局大学に入ると似たような「自由」な羊になりはてるのであって……。楽しかった高等学校時代を戦争やらがめちゃくちゃにしてしまったと語られるのは、まあ一部の人間にとってはそうなのであろう。しかし、だからといって、孫が素直に怪我をきっかけに慶応ではなく祖父の居た学校(鹿児島大学)に行ったり、鹿児島大(七高)対熊本大(五高)の親善時代で、現在の野球部のメンバーが、昔のメンバーの亡霊か何かに自然に交代したり……と、この逡巡のなさはなんというか……、「フィールド・オブ・ドリームス」より一層非科学的になっているのはいかがなものか。何が言いたいかと言えば、やつらの戦争責任と戦後責任はどうなっとるのかということだ。主人公を医者にしてるところが、既に逃げである。むしろ、ナンバースクール時代は左翼思想に染まり戦後は文科省の官僚になったやつなんかを主人公にすべきであった。

というわけで、一番おもしろかったのは、五高と七高の野球部の戦いで、応援団が調子に乗って挑発し合い市民を巻き込んで戦争状態になり、陸軍が出動したあたりである。肥後と薩摩のつばぜり合いなぞ知ったことかという感じであるが、そもそも七高は松本にくる予定であったのに、鹿児島如きが強奪しおって、許しがたい。北辰が斜めにみえるとかどこの国だ。熊本?ああ「阿部一族」で有名な野蛮国のことね。

いまの甲子園大会をみていてつまらんのは、監督などが、相手を誹謗中傷する問題発言をしなくなったことである。わたくしは木曽出身なので、義仲を馬鹿にした京都や鎌倉などの輩には負けたくない。あと、伊勢神宮の神木をどこが育ててやっとると思っとるずら(←もはや木曽弁もままならぬ)、お伊勢参りでごみをまき散らす江戸っ子の狼藉目に余る。ああ、岸とか安部とか、もともと朝敵んとこじゃねえか。

わたくしは、必ずしも、いまのファシズム的民主主義より幕藩体制の方が良かったなどという見解に組みする者ではないので、このように、誹謗が自分とは関係ない空想的な根拠によって大いに盛り上がるであろうことに注目しているに過ぎない。これは口承的な文化であったはずと思う。このような戯れ言が活字文化として自己主張をしているのが現代なのかも知れない。

……という感じで、日本の近代は藩と県の遺物でがんじがらめ、しかも遺物が遺物らしくなくなってもがんじがらめである。それから自由になることは自由であるが、……

哲學ハ有限ヲ以テ宇宙ヲ包括セントスル企画ナリ

2014-08-17 18:24:27 | 映画
朝、「北辰斜めにさすところ」を観ていた……、


誰かがいる


蛙さん


見つけてみたい人はクリック↑


逃げた


見つけてみたい人はクリック↑


逃げた


逃げた



森羅万象が悉く我々の為にあると云ふ事実は、最早何等の疑をも容れる余地がない。自分はこの事実を諸君の前に闡明すると共に、併せて全宇宙を我々の為に創造した神に、心からな感謝を捧げたいと思ふ。神の御名は讃むべきかなである。」
 蛙は、空を仰いで、眼玉を一つぐるりとまはして、それから又、大きな口をあいて云つた。
「神の御名は讃むべきかな……」
 さう云ふ語がまだ完らない中に、蛇の頭がぶつけるやうにのびたかと思ふと、この雄辯なる蛙は、見る間にその口に啣へられた。

――芥川龍之介「蛙」

今週のニュースとか

2014-08-17 04:21:28 | 大学


・おにぎり2万個女子マネージャー……ああ、これ、数日前にコメントしたわ。

すきなのよ矢吹くん あなたが!!
すきだったのよ…最近まで気がつかなかったけど
おねがい…わたしのために わたしのためにリングへあがらないで!!

たしか、こんな台詞が「あしたのジョー」にあった気がするが、これから推測するに、女子は愛する男が戦って壊れるのを望まないものである。おにぎり女子は如何に?銃後の母は如何に?しかし、私は知っている。男が戦って死ぬことを望んでいる女子がいるということを。

・県知事選・私の公約(上から届け出順)(http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/administration/20140816000141

……そういえば、昔、地方では共産党と社民党はちゃんと共闘しているという伝説を聞いたことがあるのだが、どうもそうでもないらしいのだ。(棒読み)

・登坂広臣の“生告白”に会場熱狂(http://news.goo.ne.jp/article/oricon/entertainment/oricon-2041055.html

……「劇中で能年にストレートに告白するシーンを演じた登坂は、普段も「駆け引きが大嫌いなので、好きだったら好きって言います」と男らしく宣言し、会場を沸かせた。」……完全に原作を踏みにじっとるやないか。

・終戦記念日

……靖国神社に軍服のコスプレなのか、英霊の3Dか何かがたくさん来ているとの噂である。我々の文化では昔から、衣装や仮面、つまりコスプレはイロニーであって「表現」ではない、という感じがあるのかも知れない。しかし、それが通用しない国は多いだろう。参拝しないで玉串料を払うのもそうだが、靖国参拝自体がイロニーと化していることが、私は、参拝が憲法違反であるという自明の理より深刻だと思う。なぜかといえば、イロニーばっかりやっていると、隠している「本心」も虚構じみてくるからである。平和への祈りにしても、英霊への感謝にしても、我々がその幽霊みたいなものに祈っていることが、宗教的な行為にすらなっていないことは重要である。先の大戦で日本の何が問題かと言えば、現実逃避していうちに、戦争を遂行する側も抵抗する側も、自分が何を考えているのかわからなくなってしまったことである。まあ、それはいいとして、一点だけ許せないのは、終戦記念日にいつもでてくる、戦争の犠牲者のおかげでいまの平和がある、とかいう台詞である。事実として違うし、やはり、日本の為政者や庶民の一部が、兵隊を大量に死なせることによって、戦ったつもりになっており、いずれ終わる戦いのための人柱的な犠牲だと思っていた――おそらく戦時中から――ことを示しているのではないかと思う。日本はまだナショナリズムすら経験していないのかもしれない。

・お盆休みとか

……ある哲学者のHPに嘆かれていたが、今週、ある大学で冷房が完全停止したり、空調が止まったりしているそうである。最近、大学側が研究と教育を妨害するのは当たり前になってきているので、特に驚かなかったが、ひどい話である。だいたい、この期間がお盆だから、学生や学者もお墓参りとか親戚まわりなどでぺこぺこするべきだと思っているのであろうか。言うまでもなく、8月9月というのは、学者が学生や大学の、無意識かつ意識的な嫌がらせから逃避できる唯一の期間である。一部の学生にとっても友達を気にせずにゆっくり勉強できる期間である。それを、赤字になってしまうとかの理由で、節電と料金値上げを勝手に強いる、言ってることが殆ど理解不能の一部企業のためにか知らないが、節電を強行するとは……。といって、他の大学を哀れんでいる場合でもなく、わたくしのいる大学でも、図書館の一部が二ヶ月間使用不可になってしまった。理由は「掃除」らしい。昨年も、改装工事か何かの理由で一年間全館使用不可だった。図書館がしょっちゅう使えなくなるとか、いったい、ここは本当に大学なのであろうか。

腹に田虫を繁茂させながら、なおかつヨーロッパの天地を攪乱させている

2014-08-15 23:27:15 | 文学


この蓋世不抜の一代の英気は、またナポレオンの腹の田虫をいつまでも癒す暇を与えなかった。そうして彼の田虫は彼の腹へ癌のようにますます深刻に根を張っていった。この腹に田虫を繁茂させながら、なおかつヨーロッパの天地を攪乱させているナポレオンの姿を見ていると、それは丁度、彼の腹の上の奇怪な田虫が、黙々としてヨーロッパの天地を攪乱しているかのようであった。

――横光利一「ナポレオンと田虫」

2014-08-14 18:42:03 | 食べ物


・都塚古墳が階段プラミッドにも似た方墳だったことが判明したらしい。蘇我稲目の墓かと疑われている。→まあ墓がでかいやつは概していろいろと信用できない。

・ある甲子園出場の野球部の女子マネージャーが2年間で2万個のおにぎりをつくったらしい。→よし、わしもおにぎりつくって自分で食べるぞ。というより、はやく「大正野球娘」実写化されないかなあ……。あと、「秀子の応援団長」の結末は気に入らん。

justesse/vérité

2014-08-13 23:23:30 | 思想


浅田彰のアルチュセール派論を再読してみた。なんだ、浅田氏はドゥルーズなんかの成果をアルチュセールの理論的作業として再出発させようとしていたのだな、はじめから。それにしても、真理ではなく、正しさをとるということがこれほど困難を伴うとは、アルチュセールも浅田氏も考えていなかったのではなかろうか?

顔面を人格の意味に用いることの萌芽であった

2014-08-12 23:07:00 | 大学
http://www.asahi.com/articles/ASG843RLPG84UTIL00C.html?iref=comtop_6_01

就職おすすめ度、ウラ情報込み 大学で元社員が直接指導
2014年8月12日19時35分

……「面接は第一印象が大事」。出口さんは、ドアの開閉や敬語の使い方などを指導した。「お辞儀は『失礼いたします』と言ってから」「笑顔を絶やさない」。浅野さんが面接で実践すると、面接官に「とても落ち着いた印象を受けました」と褒められたという。

この前も面接の練習につきあわされたんだが、揃いも揃って、不自然なニコニコ顔に、練習しましたという不自然なドアの開閉と敬語、で、内容のあること言うかと思ったら、これが明らかに中学生がかっこつけてる感じの内容で……。聞いてみると、「いかにも勉強してきましたという頭でっかちな感じではなく、人間的な感触の良さ」が問われているらしい。頭でっかちなやつなんか、この頃久しく見ていないのであるが……、それはともかく、一体、企業や教育現場が何を求めているのか、最近さっぱり分からなくなってきた。私の貧しい部活動の経験から言えば、舞台への入場の練習とかをやっている吹奏楽部は、すごくうまいか、すごく下手かのどちらかであって、前者と後者の割合は、1対300(←適当)ぐらいとみた。後者は、合奏の力で個人の欠点をカバーしようという発想が濃厚である。言うまでもなく、その発想は、完全に間違っている。また、合奏(実践)をすぐしたがるのも特徴である。音階もろくにできないのに曲がふけるわけがない。しかしそれが分かっているために逆に基礎練習が怖くなり合奏したがるのである。そりゃ少しはハモって愉しいからな。でもそれだけである。そして、そのいまいちさを解消するために内部で必ずいじめがある。……全く同じ事が、実践をありがたがる学問(教育)分野すべてに当てはまる。

大学の就職関係の動きについては、どの大学でもそうかも知れないが、ともかく全てが間違っているように感じられる、しかし、就職率のデータをよくしろと方々から脅迫されているからやっているだけで、別に学生の将来とかを心配している訳ではないのは明らかなので、気の毒で(誰に対してか分からんが……)、誰もが突っ込まなくなっているだけである。

ところで、わたくしは、面接という言葉に出会う度に、和辻哲郎の次の台詞を思い出す。

 面という言葉はペルソナと異なって人格とか法人とかの意味を獲得してはおらない。しかしそういう意味を獲得するような傾向が全然なかったというのではない。「人々」という意味で「面々」という言葉が用いられることもあれば、各自を意味して「めいめい」(面々の訛であろう)ということもある。これらは面目を立てる、顔をつぶす、顔を出す、などの用法とともに、顔面を人格の意味に用いることの萌芽であった。(「面とペルソナ」)

企業や教育現場が、求めているのは、礼儀作法とかいうことよりも、もう少し違ったことではなかろうか。たぶん面と人格の関係が信じられないのである。「面目を立てる、顔をつぶす」等々の場面を思い浮かべてみると、若者にその昔ながらの行動を要求するのが難しい感じがする。上司を尊敬はするし、崇めることも場合によってはするであろう。しかし、「面目を立てたり、顔を立てる」ことが難しくなっているような気がする。言うまでもなく、他人の面目を立てることが出来る人間は、他人の面目を殊更立てようとする人間ではない。敬語に関してもどうも様子がおかしい。相手を尊敬するしないこととは関係なく、お互いの個人の面目を保つために使われるのが敬語なのである。……かかる感覚が分からないのであれば、せめてそれらしい「面」を着けてくれ、という悲痛な現場の叫びを聞くべきかも知れない。

大学で、そういう叫びに答えるとすれば、就職対策じゃなく、みっちり学問をやらせて謙虚な人間をつくるしかないような気がするんだが……

……という具合に、社交辞令的論理を展開していると疲れてくる。企業は企業で、教育現場は教育現場で、君は君でやってくれませんかね……人のせいにしないで、というのが大概の大学教員の本音であろう。

おためごかしからの逃走

2014-08-12 10:13:08 | 大学


昔、高峰秀子様がどこかで言っていたのだが、教科書は一人では読めないけれども本なら一人で読める、と。これは重要なことである。高峰秀子の文章に、学校化された文章、というかなんというか、教師特有の「おためごかし」的なニュアンスが殆ど感じられないのは、彼女が学校に行かず教科書で勉強していないというのが大きいのかも知れない。教科書には、書物としてのいわば一貫した意図がない。あえてそれを読もうとすれば、グローバル化対応とか、富国強兵とか、文化国家とかいう、まさに「おためごかし」が出てくるだけである。ところが、学校というのは、そういう下らぬものを一応錦の御旗として掲げないと、優等生、というより劣等生にはなりたくない劣等生という層がついてこないのである。つまり教科の内容は理解できないが、その「おためごかし」だけは理解できる層というのは、教師も含めて非常に多い、最近、すぐ授業中に「交流」とかしたがる輩はそういう奴らである。学びの自主性とかいう御旗を掲げているが、その実、教科内容を自分が理解できる程度へ引きずり下ろしコンプレックスを解消したい連中の自己満足に終わり、結果的に、学びの自主性を持った連中の邪魔をするのが目的になっている。(最近、聞いた話によると、授業の前には必ずなにか児童や生徒を褒めなければならないという方法論があるそうである。何をやりたいのかわからんが、たぶん「ご機嫌伺い」であろう)我々は教科内容とともに、そういう妙なおためごかしに関わる心理的からくりを繰り返し教え込まれている。特に、国語や道徳の教科書は、オムニバスだから、作品と作品の間にすきがある(笑)ので、危険である。国語の授業が、作品と関係ないことを教えてしまうのは、全面的に作家論のせいとか、教師の無能のせいばかりではなく、作品が教科書に載っていることからも来るのではなかろうか。

作品を面白く語れないのに、話し合いでごまかそうとしたり、作品を心のケア(笑)の道具にしたり、しまいにゃ、体育と称して運動場で劣等生と優等生をいじめてみたり、命の大切さを説いてみたり……、と。子どもたちよ、はやく学校から逃走せよ、と言いたい。一緒に教師も逃げても良いかもな……。最近は、大学まで学校化が進んでいて、素人のくせに大学の教員まで教師面するようになってきたから、大学も逃げ場ではないのかもしれない。かんがえてみりゃ、おためごかしを内面化しなければならないような学問をやり、まじめな学究タイプを研究と関係ないところでいじめて勝ち上がってきた連中が研究者の殆どを占める様になってしまっているから、大学が本質的に学校的になるのは当たり前だ。

大切なのは、道徳や心のケアではなく、作品と治療である。

とはいえ、おそらく「逃げた」結果が、今の状態なのである。

最近のニュースより

2014-08-11 04:12:57 | 思想


・名無し上等、暴走族 「ばかばかしい」名称付け減る傾向(http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/ASG7G44VSG7GULOB013.html?fr=rk

……違うな。国語力が下がったんで、思いつかなくなったんだよ。族のみなさんが独特の文化をもっていたという殊勝な研究まで現れておるのに、一般市民になっちゃだめだなあ……。万葉仮名を中学生に教えるときにどうするのだ、教師のみなさんはみなお世話になっていたのに。

・首相コピペあいさつ、長崎も? 被爆者からの批判に無言(http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASG8951Z7G89UTFK002.html?fr=rk

……首相がコピペでなく本音でしゃべりはじめたら大変ですよ。というか、この方の発言はいままでほとんどがコピペなのではないだろうか、いろいろな人の。首相に妙な独創性は必要ない。ちゃんと正しいことをコピペしてくれりゃいいですよ。

・<大阪>維新の府議がLINEで女子中学生に「許さない」(http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/politics/mainichi-20140808k0000e010206000c.html?fr=rk

……というか、政治家如きが、女子中学生のおしゃべり力のなかを泳げると思ってんの?中学生をなめるなよ。

・カザフ「美人すぎるバレー選手」に日本の芸能界が熱視線(http://news.livedoor.com/article/detail/9109446/

……サビーナさんに質問です「どうやったら、背が高くなりますか」

・佐世保殺人事件・笹井教授自殺

……実にいやな印象を残す事件である。原因はまったく知りようがないのに、なにか必然性を感じる事件というのは、いやなものである。これらの事件に対する言説も実にいやなものだった。事件自体がまともではないとは思わない。むしろありふれた事件に属すると思うし、狂ってもいないと思う。が、原因や事件に対する反応総てから、ミスやトラウマではなく、多くの不誠実な積み重なりの存在を、我々は直観する。いやな感じを覚えるのは、たぶん、これがある程度他人と共有されていると感じるからでもあろう。坂口安吾も似た様なことをどこかで言っていたように思うが、武士の切腹なんぞをみても、そこにあるのは何らかの「嘘」と「無知」と「弱さ」であって、それが誠実さの形をとること自体が我々の文化の問題なのである。死は効き目のある贈与かも知れないが、何を送られたか分からない脅迫である。脅迫ばかりを受けているからなのか、脅迫でしか応答できなくなるのはまずいのではなかろうか。我々の社会は、切腹した武士や、戦死した英霊や、自死した人たちであふれかえっている。彼らの声を代弁する人もいるが、みな嘘つきである。私には聞こえない。また、聞こえる必要もない。分かった気にさえならなければ、分かることは多いはずである。ちなみに、科学の発見とは、そういうものでないからより面白いはずである。