わたくしの田舎木曽福島2018-2
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気になる月待塔(なんかこれも多いね、うちの田舎)などがあったが、今度じっくり見ることにして……
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この前を通ってピアノのレッスンに通ったもんであるが、少林山久昌院。臨済宗妙心寺派。興禅寺の末寺であると『木曽福島町史』にあったが、――しかしまあ、福島はなぜこんなに妙心寺派の寺が密集しているのであろう……。調べてみると、木曽郡の寺院は三分の二以上がこの宗派なのであった。
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梵鐘は享保5年のものらしい。
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ありました。御稲荷さんです。
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コンコンコンコン
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木曽町福島の興禅寺は、広い。小学校の時に、本堂を絵に描いたことを覚えている。上の勅使門は室町時代の様式らしいが、昭和二年の福島町大火で焼失したのをそっくりに復元した。
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こんなぐあいから観て描いたような気がする。もっと大きく見えたはず……。ここも大火で焼失したのを昭和三〇年に復興。
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興禅寺は、臨済宗妙心寺派。木曽氏の十二代目が木曽義仲の追善供養のため、荒れ果てていた寺を永享六年に再建したらしいのである。このあと、木曽氏や山村家によって庇護されてきて、義仲、木曽氏、山村家の菩提寺である。更に――、木曽踊の発祥地であり、木曽義仲像(焼けたが)体内仏、なんだかいろいろなお庭(日本一広い石庭含む)、義仲公お手植え二代目の櫻など、――参拝する人たちに押し寄せる「何だかすごいぞ」感……
そして極めつけは、
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木曽義仲の墓(
「さくらちりをへたところ旭将軍の墓」
誰がうまいこといえと……。
義仲は、「判官贔屓」とか言ってその実、「うまいもんくいたい」「いばりたい」としか考えていない日本の庶民とちごうて、芭蕉とか山頭火から偏愛されるお人。特に芭蕉は、日本一の文学者のくせに、義仲の墓の横で眠りたい、とか訳のわからないことを言って、本当に義仲寺に墓がある。弟子の又玄は
「木曾殿と背中合せの寒さかな」
とか詠んでいる。素晴らしい句である。これに対して、義経ときたら
「六道の道の巷に待てよ君遅れ先立ち習いありとも」(弁慶)
「後の世もまた後の世も廻り会へ染む紫の雲の上まで」(義経)
義仲は旗挙げ八幡で兵を挙げると、はじめは北陸で食べ物がなくてうだうだしてたものの、ちょっと経つと怒濤の勢いで進撃。倶利伽羅峠の戦いでは、平家軍10万を一夜にして8万人死体にするという米軍なみの殺傷力を発揮。角に火をつけた数百頭の牛を暴走させるという中国の故事に似た有名なエピソードは嘘くさいが、海賊の端くれである平家を鳥居峠の申し子の義仲が破っただけのことである。とりあえず、漁夫の利を待つ頼朝を無視して、義仲は京都に進撃。京都の人たちは、今の東京都民なみにお目出たい輩だったので、「平家は公家化してもうだめだ、旭将軍万歳」などと、「民主は民主主義っぽくてだめだ、アベノミクス万歳」と大して変わらない論理で、山猿を歓迎してしまった。
・牛車爆走事件……平家シンパの牛車係が荒くれ牛を車に接続。馬鹿牛はそのまま爆走。義仲はびっくりして「このくるまなかなかイイずら」と手すりにつかまって大興奮。止まったら後ろからぴょんと飛び降りた。(前から降りるべきだそうだが、そんなこと知るかいな……)
・猫間殿事件……猫間殿を本当の猫だと思ってしまったお猿。猫間殿が来たので「やあよくきたにゃン。さあどうぞどうぞ、ねこまんまですにゃん」と猫間殿に食事を強要。大食いするのが「nice guy」である木曽の民とはちがい、京都の公家は一日二食だったのだ。箸が進まない猫。猿は「猫の小食とはこのことだにゃん。猫の食い残しは許さんよ。おらおらクエクエ」……。
・鼓判官事件……鼓の名手の判官が「義仲軍の狼藉何とかしろ」という法皇の伝言を伝えにきた。「君の名は。誰かにぽこぽこ打たれたの?頬をペタンペタンされたの?」とつい高度なアイロニーを放ってしまったお猿。判官は激怒して「義仲をぶち殺せ」と法皇に進言。
……こんな感じで、どうみてもお猿の面白さを理解しない京都のもやし共の怒りを買った。そのあといろいろあって、怒った義仲は、都で本格的に政権掌握のクーデターをおこす。後白河法皇軍2万を7000の義仲が破ったのである。ここで義仲、天皇になっちゃえばよかったのに。と思ってしまう、木曽人の浅はかさで、このときの恨みの買い方はものすごかった。征夷大将軍などという、「いつだよ、その役職はよ」みたいなものになったのもあかんかったのかもしれない。いまだったら、安倍首相が「いまから わたくしは 関白 を して まいります」とか言ったのと同じだ。で、左から平家、右から頼朝に囲まれた義仲の頼るものといえば、竹馬の友今井四郎兼平さんとその妹巴ちゃん(突然現れるんだよな、この女)
「おのれは、とうとう、女なれば、いづちへもゆけ。我は打死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど、いはれん事もしかるべからず。と宣ひけれども、なほおちもゆかざりけるが、あまりに言はれ奉つて、「あっぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せ奉らん。」とて、控へたるところに、武蔵国にきこえたる大力、御田八郎師重、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、我乗つたる鞍の前輪に押し付けてちつとも動かさず、首捻ぢ切つて捨ててんげり。
首捻ぢ切つて捨ててんげり
首捻ぢ切つて捨ててんげり
巴ちゃん、人間じゃねえな、義仲より強かっただろう……実は。
木曽殿は只一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日入相ばかりのことなるに、薄氷張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給へる内甲を、三浦の石田次郎為久、追つ掛つて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手なれば、真っ向を馬の頭に当てて俯し給へる処に、石田が郎等二人落ち合うて、遂に木曽殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて「この日頃、日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」と名乗りければ、今井四郎、軍しけるがこれを聞き、「今は誰を庇はんとてか軍をもすべき。これを見給へ東国の殿原。日本一の剛の者の自害する手本。」とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。
だいたい、粟津の氷は馬の重さで割れてどないすんじゃ、木曽の氷はそんなもんじゃびくともせんわ、という、つい温暖湿潤気候の平均気温を理解できなかった木曽人の性で、最期は討ち取られてしまった義仲であった。兼平さんも立派な自害。だから、巴ちゃんを伴っておれば、石田二郎為久なんぞ、一瞬で「首ねじきってすててんげり」となるものを。
というわけで、おさるの毛をいつ毟ったのか知らないが、遺髪が上の墓にあるそうだ。ところで、そんな人間のことはどうでもいい。
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この寺の境内には、「蛻庵稲荷」がある。
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この「蛻庵」というのは、狐である。以下、http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/mukasibanasi.htmからの引用です。
むかしむかしキツネが坊さんに化けて、福島町の興禅寺へ来て、『どうぞ私を使ってください』と頼み込みました。あまりに頼むので、裏方を手伝ってもらうことにしました。キツネの坊さんはすぐ寺に慣れ、よく働いてくれましたので、和尚さまはすっかり気に入り、また檀家の人たちからも親しまれていました。
ある日和尚さまのお使いで飛騨の寺へ行くことになりました。
さすが、獣でもちゃんと働くやつはいいよ。
「隣村の入口にある一軒の農家では、一人の男が鉄砲の手入れをしていました。」
これは、いつもの展開ではないだろうか。
「鉄砲がきれいになり、のぞいて確かめてみるとキツネが通って行くではありませんか。おや、と思って鉄砲をはずすと、坊さんが歩いています。また鉄砲をのぞいてみるとキツネに見え、はずしてみると坊さんに見えました。『これはきっと、キツネが坊さんに化けて行くところだ』と思い、狙いを定めて鉄砲を撃つと見事に命中して、キツネはその場に倒れてしまいました。近寄ってみるとそれはキツネではなく坊さんが死んでいました。」
鉄砲を持ってるやつが必ず狐を撃ってしまうのはなぜでしょう。馬鹿なんでしょうか
「坊さんの肩には興禅寺の名がしるされた漆塗りの書状箱がかかっています。一日後に坊さんの姿はキツネに変わりました。村人たちは急いでキツネの死骸を興禅寺へ運び、和尚さまにお詫びをして埋めてもらいました。境内にある蛻庵稲荷がそれだといわれています。」
……その後、蛻庵狐の祟りで昭和二年の大火、だもんで義仲像も燃えて……、というのはわたくしの妄想である。しかし、案内板によると、ちゃんと祟りはあった。その飛騨の村が疫病で大変なことになったのである。もともとこの狐は、飛騨の殿様が可愛がっていたのだが、彼が秀吉に殺されたので、長野県に逃れてきたのであった。というワケで里帰りしたら撃ち殺されたという感じで……、こりゃたたらざるべからず。『木曽福島町史』によると、疫病はものすごく死者が続出、狐を撃った一家は悉く病に冒されたという。村民全員が興禅寺の檀家になったら一気に鎮まったらしいが……。ちなみに、蛻庵の書いたお経がこの寺には残っているらしい。そして飛騨の田中大秀(国学者で宣長の弟子ですね)が、「これは蛻庵じゃねえよ、弘法大師だろう。がんばって真似たもんだねえ」とコメントしているらしいのだ。――ここで我が四国のお大師様がでてくるとは思いませんでした。
狐に筆跡を真似られるお大師様……さすがです。
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道路を挟んで動物の供養塔があった。確かに、動物ばかりの興禅寺の逸話であった。
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あけましておめでとうございます。たぶん、うちはここの氏子ということになっているのではなかろうかと思うので、郵便局に行くついでに廣田八幡によっていこうと思いましたが、なんだか初詣の人たちがたくさんいたのでやめときました。随神門よりも外側にある、平成一三年の狛犬で勘弁して下さい。
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権現水は、権現滝からきている水場。権現滝は、城山の上の方にある滝である。木曽義仲が平家殲滅をめざして出陣する前に、御嶽大権現を勧請して身を清めた滝と言われている。小さい頃に何回か行ったことがある。近くで見ると、なんだか恐ろしい滝であった印象がある。――それはともかく、権現様の怒りのおかげで、平家の武士や女の子はたくさん海に沈んでしまった。滝が海に勝ったのである。山が海に勝ったと言ってもよい。というわけで、西行の負け惜しみの歌↓
木曾と申す武者、死に侍りけりな
木曾人は海のいかりをしずめかねて死出の山にも入りにけるかな
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と思って、近くを見たら、「郵便ポスト 義仲くん」。現代人にも義仲に対する尊敬がまったく感じられない。たぶん罰が下るはずである。
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臨済宗妙心寺派の龍源山長福寺。木曽町福島にあり。18年間もそばに住んでたが、行ったことはなかった。
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この寺はもともと飛鳥時代には創建されていたらしいが、七〇〇年後、木曽豊方(義仲の子孫らしい)が竺陰禅師を呼んで中興、――がっ、そのあと荒廃。戦国時代に、木曽義元が群馬県からやってきて、義仲の末裔っぽくがんばっていた。ついでに、信叔禅師を招いて臨済宗妙心寺派に改宗開山。しかし、前の記事にあるように、木曽氏はあれこれあって千葉に移ってしまった。その後は、山村氏がこの寺にお金を出していた。がっ、昭和2年の福島大火で多くのお堂や宝物、記録などを焼失。木曽義仲が出陣したときの太鼓なども燃えたらしい。まあ、ただの太鼓ですよ。しかたがない。
境内には真理ちゃんの夫が建てたといわれる武田信玄の墓碑がある。はあ、義理のおやじに気を遣ってかわいそうだな……。娘使って木曽を占領してただけじゃねえか、武田はよ。
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案内板によると、長福寺は、木曽の庚申講の中心だったそうである。庚申信仰はいろんなものが習合していると言われていて、もはや仏教だか神道だかわからないが、明らかにインド系とみられる青面金剛像に例のお猿がくっついていることが多い。猿田彦の影響かあるだかないだか、いろいろ言われているが、問題は、猿だか狐だかがそこらにいたということだ。われわれは、彼岸への媒介物を常に求めるのである。昭和二年の大火の時には猿が一匹焼け残っていたのであるが、昭和五五年になって三匹復興したらしい。
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これですね……
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前日、山村代官屋敷の前にあるこの古地図通りに山を登りかけてしまった訳だが……ちゃんと敷地内に移されていたのであった……
案内板に曰く、
「この祠は、8代代官山村良啓公のときに建立されたもので、それ以降山村家の護り神として、代々丁重に奉られてきました。」
狐が守り神なのであった。なぜか言えば、……
「御神体について9代良由公は、「その昔、日本国に降り給い帝都まで駆け巡り宮々を輝くばかり安泰に案じ給うた。神の化身である白狐様が、神の代わりに人々の提訴を聞き判断を仰げば、たちまち英断が下され人々はその判断に従った。」と記しています。今でも火難、病難除け、商売繁盛の霊験あらたかな神として庶民に崇敬されており、また酒を好む神としても言い伝えられています。」
確かに、もう狐を神の化身として扱っていることがわかります。もともと狐は稲荷神の使いなので神じゃないんだが、
「館内には、安永5年(1776年)ここに稲荷を奉納するという勧請書が現存します。」
以前見物した時にあったかな……
そういえば、わたくしの記憶では、ここでは狐のミイラが御神体であった気がする。
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そう言われれば思い出しました、昔習った狐の昔話を……。
ここにかいてあります。「木遣をうたう狐」
http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/mukasibanasi.htm
城山に住んでいた白狐は「おまっしゃま」と呼ばれ木遣唄がうまかった。その歌が遠くに聞こえた時は平時な時で、近くで聞こえる時は町で災いが起きるのであった。冷静に考えて、この狐がいっとう怪しい。悪さをしていたのはこの狐ではないでしょうか。そして、この狐、どうみても木遣り歌を歌えるところから判断して「人間」だと思います。
あるとき、代官が城山に出かけると近くで歌が聞こえたので、見張りを厳重にしたのであった。そして、クライマックスはこの後から、上のサイトから引用します。
「大変じゃ、ゆんべ千両箱が盗まれましたぞ」
とのお蔵番の知らせである。
代官様はすぐ家来に山狩りを命じた。
「こんなに時がたってから山狩りなんぞしたって。今頃盗人がうろうろしとるわけがない」
家来たちはぶつぶつ言いながらも、仕方なく山狩りを始めた。
ところがどうだ。
城山の頂近くの、古い檜の大木を千両箱をかついで汗だくになりながら、ぐるぐる回っている男がいるではないか。
家来たちは難なく、その男を捕まえ、代官屋敷へ引きたてて来た。
そして男を調べてみると
「どうもおかしなことで、実は二晩この床下ですきをうかがっておりました。
すると昨晩、家来の衆が全部町へ見回りに出かけましたので、そのすきに千両箱を盗み出しました。
しかし逃げても逃げても城山の外へ出られません。
はい、ここがおかしなことで、狐に化かされたんでございましょう。
気のついたときは、一本の木をぐるぐる回っておりましたんで」
この話を聞くと、代官様も家来も
「おっしゃまが、屋敷を守ってくれたんだ」
と喜び合い、お稲荷様へお参りをし、油揚げを沢山お供えしたもんだ。
「古い檜の大木を千両箱をかついで汗だくになりながら、ぐるぐる回っている男がいる」……、どうみてもPDCAサイクルを死ぬまで回しているタイプであります。で、言い訳は「狐に騙された」。今で言えば「文科省や安倍に騙された」でしょう。代官も「おっしゃまが屋敷を守ってくれたんだ」じゃねえよ。いまなら「日本に北朝鮮が攻めこれないのはわれわれの文化がすごいから」みたいなもんです。「油揚げ」……、狐は肉食というのがまだわからんのかいっ
城山というのは、代官屋敷の裏山で……
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ちなみに上の向かいの関山……↓
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関山の傾斜にも稲荷がある。いまでもちゃんとお参りする人がいる。
そんな五月のある日、頂上近くの古い檜の大木の元で遊んでいたおっしゃまは、彦七という大工にうたれて死んでしまった。そして次の年の五月に福島は大火事に見まわれ、大工彦七の家も焼けてしまった。
あとでよく調べてみると、それは一年前狐の死んだ命日であったという。
こわっ、おまっしゃまの祟りこわっ。ここから判断して、例の「ごんぎつね」も、兵十に撃たれてから、彼の家を含めあの村を焼き払ったに違いありません。「ごんぎつね」に涙している日本国民の皆さん、もういい加減に目を覚ましたらいかがでしょう。これが明治以前の日本、ひいてはグローバルスタンダードというものであります。
その大火事の中でも代官屋敷と、城山はお稲荷様に守られてか無事であった。
というか、そこまで普通焼ける訳ないじゃないか、そこまで焼けたら木曽町全体が火の海じゃ。御嶽まで燃えてまうわ。
しかし狐のうたう木遣は二度と聞くことができなくなってしまったという。
理由=彦七が撃ち殺したから。
しかし、われわれは、この日、関山の麓の関所のあたりをあるいていた時に、怪しいものを見付けてしまったのであります。
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おまっしゃまは生きている!!!(
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木曽町福島、行人橋の近く。子どもの頃から横目に見ながら登校しておったのであるが、結構な数の仏さん達がいる。その上には、「荒城の月」の碑とその上には……
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上の段から大通寺が見える。
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到着。この鐘楼門は町内では一番古い建物らしい。三井親和が書いた額あり。
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左手には真理姫の供養塔。天文24年、武田信玄が木曽に攻めてきた。領主の木曽義康は人質交換での和睦を画策したが、いつもの「強い奴は発狂する」の法則通り、信玄は義康の子ども(義昌)と自分の娘の真理ちゃん(注意:6歳)を結婚させますと通告。真理ちゃんの運命やいかに。案の定、夫はのちに武田を裏切り織田にくっつく。木曽から武田に行ってた人質たちは即座に処刑、夫は真理ちゃんを離縁して木曽山中に隠す。しかし裏切り者は結局なんとやらで義昌は網戸に追放、そのままお家断絶というかんじで、言うまでもなく真理ちゃんの人生は木曽氏の運命以前にめちゃくちゃであった。しかしバカ親父の山梨にかえるのもあれだし、結局、木曽で98歳で死んだそうである。そりゃそうである。物心ついた時には木曽に嫁に来ていたのだから。三岳村に匿われていたというからさぞ寒かったであろう。そういえば信玄も西上作戦のあと山梨には帰れずに下伊那辺りで死にくさったらしい。親子ともども長野で成仏。
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突然モダンな長寿地蔵。後ろの門と250年ぐらいの開きあり。ぴんぴんころり地蔵というのは長くいきたいのか素早く死にたいのかどっちなのだ、というか……地蔵が可愛い
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子安地蔵が冬空に屹立でござる
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ありました。ほぼ境内に大通稲荷神社です。
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追記)全国の木曽町福島出身のみなさん、福島会館がついに壊されてますよ…盛者必衰の理ですね…