Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

満月の夜に‥

2009年10月04日 23時51分29秒 | 読書
本日、一日遅れの中秋の名月を見ながらこんなことを思った。
「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」
 これは藤原道長の栄華の極まり、得意の絶頂から生まれ、驕りの極みの歌、と教わった。確か中学生の頃の日本史の時間だったと思う。
 しかし当時天文少年でもあった私はこう解釈した。「満月といってもよく見ると向かって右下あたりはくっきりとしていない。明暗もある。丸い銅鏡のような明確な輪郭線はない。だから、満月は決して完全な円ではない。道長はこのことを歌っているのではないか。独裁的な権力を握っている絶頂期の得意満面の歌、というよりは、『何事も完全に自分の思うようにはならない。多少の欠けたところ、不満があっても満足するべきではないのか』という自戒の歌ではないか」と、感じた。
 もともと一ひねりしたい少年期でもあったし、素直に教師の言うことはストンと了解できなかった。
 後にこれが「一家立三后」という後一条天皇への三女の威子の立后の時の祝宴の時に披露され、実資は和すことをかろうじて断ったが、居並ぶ諸公卿が幾度も詠わされたという「小右記」の記事があることは後に知った。この記事が事実か否かはわからないが、この記事を知ったあとも、現在まで私は当初のとおり解釈している。
 確かにずうずうしい、押しの強さを感じるが、しかし一門の栄華と、その栄華の集団に擦り寄る人々に対して、「お前らの地位や欲を全部満足なんかさせられないぜ、ほどぼどでよしとすることも少しは考えろ」という意味で「唱和」させたのかもしれない、と今でも思う。
 道長という人物、豪胆・ずうずうしさだけで権力を握ったのではないことはその日記を読めばなんとなく推察できる。他の者を凌駕する行動力と、実務にひたすら邁進する能力があったようだ。
 当時の貴族、摂政・関白、左右大臣だけですべて決することができたわけではなさそうで、公卿詮議はずいぶんと綿密に行われたようだ。叔父にあたる先輩公卿の無能、甥どもの無鉄砲・無能を突いて利用してきたが、行成はじめ実務的な有能貴族の手なづけ、実資の利用など実務的な面はかなり気を配っている。また伊周・隆家も最後は許し、手なづけ、刀伊の来寇では隆家の活躍を引き出している。
 それが第一権力者の必須の条件ではあろう。自己の意思をどのようにこなして実現するか、常にそのこなし方に気を配り続けた「配慮と気配り」の人であり、「手なづけの達人」でもあったことは確かだと思う。
 気配りによる意志の貫徹。これを権謀術数というのかどうかはわからないが、当時の政治の意思決定の実際を踏まえないと、「独裁」「専制」「強権」とはどのようなものだったか、強権あるいは独裁、専制ということばが独り歩きしてしまう。 
 もっともその気配りを通して得た人望の果てに、いつの間にか、時間の経過とともに、人の意見も聞かずに「自然と」我がとおるようになってしまったことは確かなようだ。
 今の時代では、どんな組織でも議論の形骸化、会議の不活性はいつも自戒として見直す気構えがないと、「独善へつながる」として足元を掬われる。