Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

2020年06月12日 22時13分02秒 | 俳句・短歌・詩等関連



 薊(あざみ)は春から夏にかけて咲く。花期が長いものもあり、春に咲くもの、夏から秋になって咲くもの、と多くの種類があるようだ。
 俳句では「薊」「野薊」「花薊」というと春の季語であり、夏に咲くものを「夏薊」という「決まり」があるらしい。

★深山薊は黙して居れば色濃くなる    加藤知世子
★出羽なれば薊はまして色の濃き     庄司たけし
★野の雨は音なく至る夏薊        稲畑汀子

 加藤千世子は加藤楸邨の妻、いつ頃の句であろうか。深山薊が春の季語なのか、夏の季語にあたるのか。深山小薊という種類はあるようで5月~8月にさくという。この種類ならば夏ということだろうか。
 しかし細かに夏だ、春だ、と詮索することは俳句の解釈の方法としては私はどうかと思う。薊という多年草が持つ季節感としては春から秋の初めの長い期間を付与すればことは足りる。それが薊の持つ季節感とすればいいのであろう、くらいに鷹揚に構えていたい。

 第3句を読むと、写生句として読むことが出来ない。音もなく作者に迫ってくる「何か」が「野の雨」に託されていないか、と読みたくなる。音もなく、ということで否定的な思いではなさそうである。碇や後悔や、疑念であれば静かにはいられない。
 これは読みすぎ、詮索のし過ぎだろうか。


アザミで思い出すこと

2020年06月12日 20時23分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評



 横浜駅の傍の大きなオフィスビルの横に公開空地があり、ベンチがある。多くのサラリーマンで昼食時や15時前後にはいっぱいになる。
 緊急事態宣言明けでベンチがいっぱいになることは今はまだない。私も時々ウォーキングの途中のコーヒータイム、昼食タイムに利用させてもらっている。ビルと樹木の蔭でとても気持ちのいい場所である。公開空地ということで、ビルのオーナーが土地を管理している。禁煙・スケボー禁止・ゴミ持ち帰りなどという注意書きがあるものの、空いているときは煙草を吸いにたむろするサラリーマンがちらほらいるのが迷惑であるが、ビルの合間の少し強めの風の影響でそれほど迷惑にはなっていない。
 そのベンチの脇の植え込みにはビヨウヤナギが植えてあり今が見頃である。その花の間を雀などが飛び回り、お弁当を食べているサラリーマンの足もとを狙っている。
 本日は近くのコンビニで購入したコーヒーを飲みながら雀とビヨウヤナギで一服。

   

 歩いて帰る途中の植樹枡の中では、アザミを見つけた。

 私のアザミの思い出は二つ。ひとつは東北の山に登るたびに棘のないアザミのような花に出会ったことである。当初東北のアザミは棘がないものがあるのか、と思っていた。のちにタムラソウというものだと教わった。別のものである、また坂上田村麻呂の名とは無関係であるとのことであった。タムラソウはキク科タムラソウ属、アザミはキク科アザミ属ということも知った。
 タムラソウは本州・九州・四国に分布するので東北の固有種でもなかった。

 アザミの思い出のふたつ目は、道路の植樹枡にこれが咲くと「棘が痛いから除去しろ」という要望があり、いつも地先のかたとの間で苦労したこと。地先のかたは水やりなどもしており、アザミの美しさが好きなのであろう。植樹枡に草花を植えてきれいにしているのを除去してしまいたくないし、「危険だ」と声高に言われるのもつらい、いつも板挟みで困った。地元同士で仲良く解決してもらいたいものであった。子どもは痛いことを体験してこそ触らないほうがいいことを自分で学ぶものである。

 アザミを見るたびにこの二つのことを思い出す。
 


梅雨入り宣言後の好天気

2020年06月12日 12時49分11秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 梅雨入り宣言の翌日のよく晴れた朝である。このようなことは私の経験でも幾度かあったと思うが、皮肉なものと感じる。ただし本日の夕方からは関東地方は雷雨という予想もされている。

 昨日は家の前の郵便ポストまで300歩余りで往復しただけ。これより出かけてみる予定。両足首のむくみはひいていない。どうも気になる。痛くもなんともないが、むくみはひどい。再来週の市民病院の診察予約まで放置するしかない。
 妻にも一目見ただけで異常にむくんでいるのがわかる、という指摘が続いている。

 午前中は来週の会議の資料を確定して、他の役員に事前報告のメール等で費やされた。

★梅雨晴れや手枕の骨鳴るままに     横光利一

 この句、雨の最中の無聊の句ではなく、梅雨晴の句なのが不思議。手枕で方から肘にかけてすっかり凝り固まってしまったのだろう。雨の時のまま、晴れても起き上がらずに、出かけることもなく、出不精になってしまった自虐の句と理解できそう。
 若い頃に私はそのようになった。最近は年齢のためといえるのか、何しろすぐに出かけてしまう。