薊(あざみ)は春から夏にかけて咲く。花期が長いものもあり、春に咲くもの、夏から秋になって咲くもの、と多くの種類があるようだ。
俳句では「薊」「野薊」「花薊」というと春の季語であり、夏に咲くものを「夏薊」という「決まり」があるらしい。
★深山薊は黙して居れば色濃くなる 加藤知世子
★出羽なれば薊はまして色の濃き 庄司たけし
★野の雨は音なく至る夏薊 稲畑汀子
加藤千世子は加藤楸邨の妻、いつ頃の句であろうか。深山薊が春の季語なのか、夏の季語にあたるのか。深山小薊という種類はあるようで5月~8月にさくという。この種類ならば夏ということだろうか。
しかし細かに夏だ、春だ、と詮索することは俳句の解釈の方法としては私はどうかと思う。薊という多年草が持つ季節感としては春から秋の初めの長い期間を付与すればことは足りる。それが薊の持つ季節感とすればいいのであろう、くらいに鷹揚に構えていたい。
第3句を読むと、写生句として読むことが出来ない。音もなく作者に迫ってくる「何か」が「野の雨」に託されていないか、と読みたくなる。音もなく、ということで否定的な思いではなさそうである。碇や後悔や、疑念であれば静かにはいられない。
これは読みすぎ、詮索のし過ぎだろうか。