Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「芸術原論」から 5

2025年03月04日 11時55分37秒 | 読書

 昨晩は「芸術原論」(赤瀬川原平)を読んだ。
 ゴッホについて、私の思いもつかなかったことを指摘している。
ゴッホというのは意外と頭脳家ですね。・・・転載というのは論理的なんです。その論理が猛烈に微細で、膨大なので、理屈ではその論理を辿ることが出来ない。・・・ゴッホは冒険家ですね。暗いものに対する冒険家であり、そして色に対する冒険家でした。」(第二部「在来の美」の「頭脳家ゴッホ」)
(ピカソは)はヘタウマの元祖なのだ。・・・ヘタウマというのは「晩年」という終末的な減少である一方で、新しい力による古い空の破壊現象でもある。・・・ピカソは少年時代の大変なリアリズムの技倆から発してまったく無垢のヘタウマに達した人で、やはり稀有な存在である。」(第二部「在来の美」の「ヘタウマ元祖のピカソ」)
印象派の絵の初初しさというのは、人類史上無上のものだ。何かのための絵ではなく、絵そのものを得た人々の喜びが溢れかえっていた。人々ははじめて、絵筆に絵具をつけてキャンパスに塗るという、このことだけの喜びを知ったのである。現代芸術の原点である。すでにそれは抽象絵画だといってもいいのだろう。」(第二部「在来の美」の「セザンヌ筆触考」)
筆触=タッチというのは絵の価値の末端部にあるオマケのようなものだと思っていたが、実は末端部にあるがために、絵の価値を支える重要な基点となっている。筆先の絵具がキャンパスに接触して、その接点から絵が生まれる。セザンヌが筆触をあえてつけてしまう気持ちもそのことを孕んでいる。筆触というのがおおっぴらに取り出されたのもまた印象派によってである。・・・絵の中にあえて塗り残したセザンヌの意図というものは、明確な言葉にはあらわされないものだろう。絵筆を持つ腕の奥深くに隠されているのだと思う。隠された内部の何ものかに押されて、筆先だけがいやおうなく絵の中を塗り残してしまったのだ。絵画表現とはまさにそのようなものなのだと、あらためて知らされた。」(第二部「セザンヌ筆触考」)

 すっきりとは記載されておらず、読むほうの私もすっきりとは理解できないが、惹かれる記述である。絵画を描くという修練からはまったく無縁の地点にいた私には、厚塗り・うす塗り、筆触、塗り残し等々の記述は新鮮である。