Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

64年目の6.15

2024年06月15日 22時18分55秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 忘れたくないことのひとつとして、本日が1960年国会内で樺美智子が殺された日であること。彼女のお墓はたまたま私の親族の墓のある多磨霊園にある。霊園の裏門の傍の「21区2種32側14番」である。幾度か立ち寄ったことがある。

「最後に」   1956年 美智子作

誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ


 歌人の福島泰樹は本日のX(旧ツィッター)で次のように記した。

今日、60年安保闘争で 
若い命を奪われた
樺美智子の命日。 
君が書き遺した言葉で
君を追悼します 
微笑の美しい人であった……。
でも私は 
いつまでも笑わないだろう 
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ 
ただ許されるなら 
最後に
人知れず ほほえみたいものだ


楽しいひととき

2024年06月15日 20時10分55秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は退職者会の私の属するブロックの総会と、退職者会全体のカラオケイベントが重なってしまった。
 朝一番でカラオケで使うプロジェクターを設置し、あとはカラオケ装置の業者に引継ぎ。昼からはブロックの総会で、新市庁舎を案内。職員の執務質がオープンではないという、退職者には驚きの新市庁舎のあり様や、新しい機構に首を捻るなどの反応。ただし明るいビル内には感嘆。特に飛鳥田市政以来の「オープンな市長室」の理念が消え、市庁舎のどこに市長室があるのか、不明の案内板には、私たちには大きな違和感が湧いてくる。
 総会は少人数であったが、90分間、それぞれの近況報告を中心に話が弾んだ。実に楽しい時間を過ごすことが出来た。
 総会終了後は、カラオケイベントにもどり、最後の片付けを手伝い帰宅。


減量を申し渡される

2024年06月14日 21時19分25秒 | 病い

 本日は午前中は歯医者、午後からはいつもの内科に通院。
 歯医者は本日で治療完了。被せていたものが取れてしまったものの復元1本、小さな虫歯になりかけの6本の歯の治療、スクリーニングが終了した。復元の歯以外の治療は特に小さな虫食いのあとの治療だったようだ。5年くらい見てもらっていなかった割には悪くはなっていなかったらしいが、もっと早めに点検してもらったほうが良いようだ。

 そして午後の内科では次回の4週間後までの減量を強く申し渡された。このままでは新たな治療を開始しなくてはいけない、というきついお達し。確かにかなり体重が増えすぎている。
 夏なのでいい機会である。また膝の調子も今のところなんとか上々なので、運動と減食に心掛けなくてはいけなくなった。減量は20代から幾度も成功しているが、成功の鍵は「気力」。
 50代半ばまでは60キロ台前半の体重を維持したものの、気力が減退した60代以降、放置していたのがいけなかったようだ。退職者会での飲み会での飲食は良くないと判ってはいるが自重できるだろうか。果たして今回はうまくいくだろうか。


「老いの深み」から

2024年06月14日 20時29分25秒 | 読書

 「老いの深み」(黒井千次)の10編ほどに目を通した。

日々の暮らしの中で、失敗することが俄かに多くなった・・。(緑内障で)一方の眼しか見えなくなると、手もとの遠近の感覚が衰え、モノの奥行きがなくなる。急に単眼状態になると奥行の感覚が狂うのは仕方がないとしても、(以前のように)それを補う立体感がいつまで経っても戻って来ない。・・・・(幼児にとって)転ぶことは歩いたり走ったりする準備活動であり、避けて通れぬ門である。年寄りの転倒は加熱のカッカなのだ。成長期の子供は未来に向けて転ぶのであり、老人は終わりにに向かって転ぶのだ。食事の折、背の高い器はきっと手にひっかけてテーブルから落とすぞ、と予感が走る。予感が的中すると満足を覚える。」(「老人にとって失敗とは」)

 最後の結論の文章がいい。ここまで「自分が老人であること」を客観視し、その状態を達観して楽しむ境地、なかなかいい。実際には「テーブルから落とす」ことはなくともその想像力を楽しむゆとりを持ちたいものであるる

居眠りは年寄りの視線なのであり、生きていることの表現なのである。年寄りとは膨大な量の居眠りを背負って生きている人々のことだ。(居眠りの)背後に見えないまま隠されている膨大な月日は、日常的には気づかぬことがあっても、時にはあらためてその時間の袋のようなものに対決してみる必要がある。」(「居眠りは年寄りの自然」)

手にしている物を落とすことが多くなった。幹事としては〈落とす〉という他動詞より、〈落ちる〉という自動詞のほうがよりふさわしいように思われる。・・これは自然現象ではなく、手や指先の不注意な動作によって発生した自己であるとして当の本人の気のユルミや振る舞いの粗暴さが責められる。さかのぼって原因を究明してはいけない。老いたる当事者としては、身を縮めてその場から遠ざかるのが賢明である。」(「いずれ手放す、その時まで」)

 ここまで茶目っ気のある生きかた、そういう生きかたができる作者がうらやましいと思う。こういう歳の撮り方をしたいものである。ただしこの一編の「手放し」てしまったたものは意味深である。


ヘンデル ヴァイオリンソナタ

2024年06月13日 20時37分22秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日は夕食後、ヘンデルのヴァイオリンソナタ全6曲を、アルテュール・グリュミオーのヴァイオリン、ロベール・ラクロワのチェンバロで聴いている。
 聴きなれた美しい旋律が久しぶりに耳を楽しませてくれる。

 10代、20代の初めの時は第1番と世に最も有名な第4番(特に第3、第4楽章)を偏愛していたが、今は、どの曲も気に入っている。
 私にとっては精神を鎮めてくれる曲である。


疲れてはいないはずが

2024年06月13日 18時01分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午前中は会議の資料の印刷・製本を実施。午後は3日連続で買い物の付き添い。
 一昨日は妻の利用する電気製品、昨日は親の日用品と食料品ならびに我が家の食料品、本日も親の日用品と我が家の食料品の買い物につき合った。特に本日は重たいものを持たされて、帰宅。買い物の内容や購入場所は、親と妻とですべて決められており、私はついていって、荷物持ちだけの役目。
 天気予報では雨は降ることはないとのことであったが、帰宅時に弱い雨がポツリポツリ。歩いて帰る予定だったが、バスに変更。
 帰宅してみるとどういうわけかテレビを眺めているうちに寝てしまった。首が痛くなり、ベッドに移動してそのまま熟睡。気がついたら2時間以上寝ていた。特に疲れたという自覚はなかったのに、不覚。

 目が覚めてみると、太陽が顔を出していた。


熱中症と食中毒の季節

2024年06月12日 22時17分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日も妻と買い物に出かけた。昨日よりも湿度も高く、その上気温も上昇。かなり暑く感じた。横浜も29.1℃と今年の最高気温を記録した。ジーパンではかなり暑苦しく感じた。

 退職者会ニュースの作成作業は夕食後から。予定原稿以外のコラム欄二つを作ってみた。7月発行なので、「熱中症予防」と「食中毒予防」の呼びかけの囲み記事。例年は交互にこの時期に掲載しているが、今年は二つを同時に掲載してみた。
 他の記事の具合によっては、どちらかを削らないといけないが、出来れば両方載せたい。
 おもて面の二つのメイン記事は、それぞれ半分は完了。あまり急ぐ必要もないので、本日はこれまで。

 明日は土曜日の会議の資料を12部ほど印刷・製本する作業を完了したい。


「春画のからくり」 2

2024年06月12日 11時13分49秒 | 読書

   

 「春画のからくり」(田中優子)の「いけないヌードから正しい春画へ」、「江戸はトランスジェンダー」、「春画の隠す・見せる」を読み終えた。

私がフェミニストの運動家なら許さないだろうと思う現象が巷では起きている。女性ヌードの氾濫である。なぜ、女性なのだろうか、なぜヌードなのだろうか。春画には女性ヌードは皆無だからだ。春画は必ずといっていいほど、着物を来ていたり欠けていたリス。ヌードを見せるための絵ではなく、性交を見せるための絵だからである。春画は着物やついたてや襖などで、身体をできるだけ隠し・・。多くの春画は男女ほぼ同じ露出度である。春画は「笑い絵」ともいわれ、・・からりとした生の笑いと喜びとエネルギーは、人間を元気づけるものだからだろう。おおかたの女性は、一方的な視線に興味は持たないのかもしれない。」(「いけないヌードから正しい春画へ」)

喜多川歌麿は春画の中にドラマを作り上げた・・。歌麿の春画における着物や調度はすべて、ドラマを仕組む小道具になっている。春画はそれだけ洗練され、物語性に向かって集中していった。」(「春画の隠す・見せる」)

葛飾北斎は、個の中に増殖してゆく幻想や、おのれの独特の視覚を通した外界をそのまま描く天才的な能力があったが、「関係」を描くことや、絵を見る側の内面を想像することのできない絵師だったのかも知れない。」(「春画の隠す・見せる」)

「隠す・見せる」というのは基本的な表現技法のようにも思えるが、そのバランスを保つのは容易ではない。いつの時代でも可能、というわけでもない。作る側・見る側ともに、共通の教養基盤があってこそ、隠すこともでき、相互の想像裡で見せる・見る、という関係も作り出すからだ。その共通基盤が失われてしまうと、誰に見せてもすぐにわかるものへと傾斜してゆくであろう。一見月並みと見える表現の中の小さな差異を探り当て、コミュニケーションの喜びを見出すというのは、かなり深い教養のいるものであるし、互いにある程度共通した知識と感性がなくては、成立しないのである。・・絵画(浮世絵)にとどまらず、江戸期の文芸も同じ途を辿っていった・・。一定の教養を背景にして成立する文学・浮世絵の方法が姿を消し、誰でも見て読んですぐ判る、という大衆化路線に姿を変えていったのである。日本にとって近代への準備でもあった。・・大衆消費社会の出現――春画の表現はそれによって大きく変わったのではなかろうか。」(「春画の隠す・見せる」)

 「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)とは違って、前半は江戸時代に限った論稿ではある。前半は構図や描かれたものの変遷から時間軸を辿り、春画だけでなく、文化自体の変遷を遡上にのせている。江戸時代以降への言及は後半に期待。


買い物のお伴は疲れる

2024年06月11日 19時54分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 湿度が60%台と意外と低かったことと、風が3m程度と少し強く、28.6℃という最高気温の割に暑さは感じなかった。しかし夕方になると湿度が80%台に上がってきた。帰宅時の汗がなかなかひかなかった。

 午後出かけて、ふたりで横浜駅近くの繁華街をだいぶ歩き回った。家電量販店、百貨店等々を回り、疲れて喫茶店で一服してから帰宅。読書時間は確保できなかった。

 これより若干の「春画のからくり」(田中優子)の読書タイムとしたい。


人気取り政策の功罪

2024年06月11日 13時16分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午前中は退職者会ニュースの作成。午後は横浜駅近くの家電量販店での妻の買い物につき合うことに。昼食も外食にしようかとも考えたが、冷蔵庫にある夕食の残り物を無駄なく食べようということにした。無駄遣いよりは節約。

 本日は30℃近くまで気温は高くなるとのこと。そろそろ短い丈のズボンが欲しい。昨年までのものはウェストがきつくなっているのではないかという悪い予感がしている。

 先日、市県民税の説明書が郵送された。「賃金上昇が物価高に追いついていない国民の負担を緩和し、物価上昇を十分に超える持続的な賃上げが行われる経済の実現を目指すための一時的な措置として・・・・」という謳い文句から始まる文書。賃上げの補完をどうして税金で行わなければならないのか、飛躍のありすぎる文章である。
 そしてすべての文書を読んでも私にも妻にも具体的に理解できる説明はなかった。恥ずかしながら私も元地方公務員であるが、税務の業務には携わったことはない。それでもほとんど理解できない説明文には驚いた。
 住民税は、年金支給に合わせて隔月の分割払いである。6回の納付が数千円ほど安くなったとして、意図的な消費に回るとは到底思えない。しかも安くなるのは10月以降である。実感を伴わない制度である。所得税の部分についてもどうなるのかもわからない。
 テレビの報道を見ても、給与所得者ではない年金生活者にとってはほとんど実感の湧かない処置だと思ってしまう。これでは景気回復にも、低所得者への救済にも繋がらない、実感に乏しいのではないだろうか。実感に乏しいということは、経済への波及効果も小さいとしか思えない。
 先週、私の退職者会の他の役員に聞いたが、はやり理解は難しかったとのことである。ほとんどの高齢者、年金生活者にとっても理解できない、と思われる。そして税務の職場もわかりにくい制度設計のため、かなり混乱しているとの報告もあった。まだ現金給付、金券配布の方が効果があるのではないか、という意見すら聞こえてくるらしい。

 この人気取り政策は、現場に混乱をもたらし、国民にはわかりにくく、詐欺の横行に手を貸すだけではないのか。


「老いの深み」から

2024年06月10日 22時33分26秒 | 読書

   

 「春画のからくり」(田中優子)を少々読んだのち、黒井千次の「老いの深み」から2編ほどを読んだ。
 なるほどという感想と、そんな考えもあるのかと感心することと、そして「俺は反対のように感じていた」と首をひねる個所とがある。人間だから人それぞれの感想なり、思いがあるのが当然でそれが面白くてこの本に目を通している。
 本日読んだのは初めの方の「ファックス止り」と「まだ青二才という爽快感」の二編。
 「ファックス止り」では、「自分がついていけるのは、せいぜいファックスまでだな。」という感想を述べ、その理由として「(ワープロ・パソコン等の)その先になると、文字を手で書くのではなく、機械とのやり取りの中から文字を呼び出すような仕事となるためか、〈書く〉という行為のあり方が変わって来そうな気がする」を挙げている。
 すっかりパソコンにはまり込んで、パソコンがないと思考そのものが前に進まなくなった私も同感である。私の場合はワープロまでは「手書きの代わり」ですんでおり、手書きとの割合は半々であった。しかしパソコンになってから、いつの間にか鉛筆ではなくキーボードを叩きながら思考するようになった。著者の指摘のとおり、機械との対話の中で、思考と文字を呼び出している。

 さて、「まだ青二才という爽快感」も、パーティーで自分より年上の画家のしゃんとした立ち居振る舞いに感心しながら、「自分はこの画家に比べて明らかに若輩なのであり、未熟で足りぬことばかりの青二才にすぎず、失敗する場がこの先にいくつでも残されているのだ、という自由の感覚が芽生え、少年のような爽やかな気分の中に自分が放たれているのを感じた。」とある。ちょっと不思議な感覚だな、と思った。年上の人が自分よりもしゃんと立っている姿を見て、自己卑下するのではなく「自由な感覚が芽生え」ること、こういう感覚の方が確かに若々しい。そういう感覚になれることがうらやましいと感じた。
 しかしである、この引用の直後に唐突に「人間にとって絶対であるのは〈誕生〉と〈死〉だけであって、途中の年齢はすべて相対的なものに過ぎぬ、との思いが強く湧いた。」というのには驚いた。唐突な言葉が強引に繋がっていることへの驚き。
 もう一つは、私は「人間にとっては〈誕生〉は自分には選択権はなかったし、〈死〉にもない。ただしその途中のことはすべて自己責任、そこにこそ〈絶対〉がある」と教わり、実践してきたつもりであることからくる驚きである。
 親から与えられた〈誕生〉と、親の遺伝子を引継いだ〈自然死〉や社会から強いられた〈死〉を「絶対的」なもの、という捉え方・記述は否定はしない。私は「相対的」と表現してきたが。しかし「途中の年齢はすべて相対的なものに過ぎぬ」という表現は寂しい把握だと感じた。
 途中の年齢にこそ〈生〉の本質はある、そこにこそ人間にとっての「絶対的価値」が存在すると思いたいものである。

 同調と、知らなかった考え方と違和感とをないまぜにして楽しめるエッセイである。


雨のち曇り

2024年06月10日 20時13分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩の雨は23時ころから本降りとなった。広範囲に雨の区域が関東地方を覆い、南から北に雨の区域は移動していた。横浜市内では日付が変わる前は強くても時間換算雨量で10mm程度の雨であったが、三浦半島の西岸では80mm近い雨の区域が30分以上は居座っていた。
 日付が変わった意向を寝てしまったので、その後の変化は不明。

 朝には雨は上がっていたものの、天気は終日曇り。午前中の私の歯医者への通院と、親の通院の付き添いののち、午後からは横浜駅近くのいつもの喫茶店で読書。
 「春画のからくり」(田中優子)を読んでいた。しかし両隣に人がすわり、文庫本でモノクロ、小さな図版とはいえ「春画」の挿絵の多い本はちょっと躊躇われてしまった。別に私の本を覗きこまれることもないが、多少は遠慮。読むスピードは落ちた。

 家電量販店に寄り、購入予定はないが最新のノートパソコンや周辺機器の値段を見て回った。珍しく書店には寄らなかった。

 夜はふたたび少しだけだが読書タイムの予定。


霧雨のウォーキング

2024年06月09日 21時45分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 夕食後、退職者会ニュースの原稿づくりを2時間ばかり。まだ時間的にゆとりがあるので、焦らずに作成したいもの。写真はだいぶ揃っているが、原稿はまだ揃っていない。

 明日は朝のうち雨が残るようだ。午前中は私の歯医者の予約、昼前に親の通院の付き添い。晴れるという予報の午後は、特に予定が入っていない。

 夜の軽いウォーキングを3000歩ほど。霧雨のような雨が降り始めた。明日の朝までにはやんでほしいものである。


「春画のからくり」 1

2024年06月09日 17時46分09秒 | 読書

   

 一昨日から読み始めたのは「春画のからくり」(田中優子、ちくま文庫)。「日本の裸体芸術 刺青からヌードへ」(宮下規久朗)とは少し違う視点で、春画を扱っている。春画は必ず衣服を纏った姿で描かれたが、その根拠を説明してくれる。二つの本は同時に目をとおすと私には良く理解できる気がする。
 ことにこちらは江戸時代の浮世絵の春画に焦点をあてて、そのうえ構図や、他に描かれた室内などの調度品・衣服などにも大きな意義があることを解説してくれる。客観的な分析的解説に惹かれて選んだ。

(鳥居清信は)「隠して見せる」と「見せて隠す」の二重の往復運動を仕掛けている。女性は緋色の腰巻をつけたままである。座敷には床の間があって、花が生けられ香袋が置かれている。また覗いている女の着物は蔦の葉の文様・・。春画がのちのポルノグラフィーと異なる点は、空間の開放性からくるのびやかな点と、性交以外のあらゆる日常性に対して開かれている(性交以外の眼の行きどころを設定してある)ことからくる、開放的な点である。春画が必ずその「のびやかさ」の仕組みを持つことは、春画を見る者がそれを求めたカラであろう。」(「春画の隠す・見せる」の「「隠す・見せる」の深化」)


読書の合間に作業

2024年06月08日 22時21分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日は特に予定なし。日曜日なので、横浜駅界隈は混雑しているはず。出かけるのが躊躇われる。天気は一日中曇りの予想。
 いくつかの事務作業を手早く片付けてから、近くの美味しいコーヒーを淹れてくれる喫茶店で読書タイムが出来れば嬉しい。
 読書タイムの前か後に、退職者会ニュース7月号の原稿づくりを少しだけでも開始してみたい。趣味の合間に作業、というのはまだまだ時間的余裕がある。趣味をする時間がなくなれば、切羽詰まっている証し。