花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

子ども虐待に思う

2009年04月03日 | TV・映画・音楽・美術
先日、北海道の最北の地・稚内で4歳の男児が2.5℃の水風呂に繰り返し押さえつけられて入れられ、虐待死したというニュースを聞いて、背筋が凍るような思いにさせられたのは私だけでは無いと思う。

今朝の新聞には、続報として、水風呂に入れる前に裸にして水のシャワーを全身に掛けたこと、また道警の解剖所見として、腸間膜とすい臓が傷つき、出血を確認していると書かれていた。
これらの臓器の損傷は、何らかの強い圧力が体に加えられた場合にできるのだという。
逮捕された母親は25歳、同居する容疑者の男性は38歳だという。
2人は、子どもなら誰にでもあり得る食事が遅いとか、行儀が悪い事へのしつけだったと言っている。

この事件を知ってから、私は20年くらい前に読んだアメリカの人類学者、ヘレン・E・フィッシャーが書いた翻訳本の1節を思い出した。
(彼女は今年1月に放映されたNHKスペシャル「男と女」にも出演していたので、覚えている人も居るのではと思う)
書名は「結婚の起源ー女と男の関係の人類学」。
私の記憶の中の1節とは、「人類の祖先に当たるとされるチンパンジーは、ボスを中心としたハーレムを作って暮らすが、若い別のオスがボスと戦って勝ち、新しいボスになると、メスが育てている前のボスの子どもを殺す」という下りだ。
ヘレンは理由として、子育てをしている期間の雌は発情しないから。また、自分の遺伝子だけを有利に残したいためだと説明していた。

先日、図書館で彼女が16~7年前に書いた本の邦訳版「愛はなぜ終わるのかー結婚・不倫・離婚の自然史」を見つけたので読んだ。面白かった。
こちらの内容は、機会があればいつか書きたい。

コメント (3)
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一日、美術作品を堪能

2008年08月16日 | TV・映画・音楽・美術

今日は朝まで降っていた雨も上がったので、札幌に行き、美術巡りをすることにした。
一人ではつまらないので、従姉妹を誘って近代美術館で待ち合わせた。
従姉妹への土産に庭のキューリ、トマト、インゲン豆、サラダ菜、シシトウを大急ぎで摘んで、持参した。

先ず、そこで公開されていた『レオナード・藤田展』を、1時間半掛けて堪能した。
彼は1986年に東京に生まれ、東京美術学校卒業後フランスに渡ってピカソやルソーらと親交を深め、その影響を受けながら当時のエコール・ド・パリの代表的な画家として活躍したのだった。
やがて、日本画の筆を使ったり、陶器の肌のような乳白色の絵画表現でヨーロッパで有名になる。
数枚の自画像や裸婦の絵には猫も書き込まれていて、独特な雰囲気を醸し出していた。大型キャンバスに描かれた多くが裸の男女の群像は見ごたえがあった。

晩年、彼はフランス国籍を取り、キリスト教の洗礼を受け、最後の仕事とした協会建設を手がけた。内部の壮大な壁画、ステンドグラスには、彼の画家としての集大成を見ることができた。

私は、こんな素晴らしい作品を残した日本人画家が居たのかと感動した。
しかし、当時の日本社会では、彼の様な自由奔放な絵画表現は許されない風潮があった時代だったと思うし、とりわけ戦争中、日本の軍部に依頼されて書いた軍人の群像画が、戦後非難を受けた事もあったらしく、彼が言うところの『日本に捨てられた』画家としての苦悩と人生が理解できる思いがした。
どの絵も荘厳な人間の存在と精神に満ちていたが、笑顔は一つも描かれず、生きる幸福感を感じさせられる絵はなかった。
最後に私は、彼が建築家と作り上げた協会の説明文の中に、『戦争や広島の原爆という悲惨な出来事が、世界から無くなる事を神に祈る』ための場として協会を建てた、と言う様な意味の事が書かれていたのを見つけたのだった。

美術館を出てバスに乗り、次に見に行ったのは無料で展示されていた『墨描・中国人強制連行図絵』展だった。
「人として忘れてはならない歴史がある」として、当時の中国人の強制連行の実態を墨で大判十数枚の絵に書き上げたのは、太平洋戦争末期、北海道岩内町(現在共和町)にあった鹿島組玉川事業所で管理人をしていた志村墨然人さん、85才だ。
彼は、その事業所で実際に見た自分の記憶を、そのまま絵に表したのだ。

絵は、数百人の中国人が列車で岩内駅に着いた所から描かれていた。
2日間の身体検査の後、初めてさせられたもっこ担ぎの絵、過酷な作業現場、集団逃走、捕らえられてからの拷問場面、過酷な労働と栄養失調で死んだある中国人の解剖場面図、その火葬の図、日本人囚人を使ったたこ部屋の作業場面などが、次々と白黒の墨による圧倒的な迫力で当時の実情を訴えて来るのだ。
日本は戦時中不足した労働力を、このようなすざましい非人間的なやり方で補ったのだという。見ていると辛くなった。

会場の片隅で画家の志村さんは取材を受けていたため、声を掛けたかったができなかった。それで私は記名帳に「有難うございました」と一言書いて出て来た。
戦後63年、もっともっと、当時の歴史的な事実を知ることが大切だと思った。

その後、二人で遅いランチを食べながら絵の感想や近況報告などおしゃべりをしてから帰宅した。
今日は全く異なる作品に触れる事で、それぞれに感動したり、考えさせられた一日になった。

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映画「earth-アース」を見て

2008年02月11日 | TV・映画・音楽・美術

 今日は朝から雪が降り続いていて、これといった用事もない。思い立って「earth」を見に行く事にした。

 地球の北極から南極まで、生命の営みと輝きを、これほど素晴らしい映像と音楽で表現したものに私は初めて出逢った。兎に角、宇宙の中で命が息づくこの地球で、営々と暮らすもの達の命を守る戦いの凄さと美しさに感動し、素晴らしい地球の姿を再確認させられた。
 まだ見ていない方には、お薦めしたい心に残る映画だった。


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映画「そうかもしれない」を観て

2008年01月19日 | TV・映画・音楽・美術

 先日夜、BSで放映された映画「そうかもしれない」を観た方がいるだろうか。
 子どもの居ない高齢者夫婦の老いをテーマにした映画だった。

 専業主婦の妻が次第に認知症を深めて行き、買い物ができなくなる。料理中に火を出す。風呂に入りたがらなくなる。徘徊する。
 そしてある時、失禁してしまう。その時、後始末をしてくれている夫に向かって、「どんなご縁で世話になっているのか?」と聞くのだ。
 私小説を書く夫は、そんな妻との日常を書いて出版する。
 妻の症状を医者に相談すると、アルツハイマー病と診断され、やむなく特別養護老人ホームへ妻を入所させるのだ。

 やっと自分の事を考えられるようになった夫は、それまで我慢していた口の中の痛みを医者に見て貰う。即刻入院を指示され、放射線治療が始まる。がんだったのだ。

 ある日、妻が施設の職員に付き添われて病院へ見舞いに来る。夫は無表情の妻の手を取り、優しくさする。看護婦や職員から「旦那さんですよ。旦那さんに会えて良かったね。」と何度も言われた妻は、「そうかも知れない」とつぶやくのだ。
 それからしばらくして夫の死亡が妻の施設に伝えられる。

 こんなストーリーだった。
 私はこの映画で、夫婦の別れは片方が死ぬ時だけではなく、施設に入る時、退院が無理な状態の入院も別れなのだとしみじみ思った。そうであれば二人が元気でいられる時間こそ、もっと大切にするべきなのだろうと思ったのだ。
 暗くなりがちなテーマだが、心に残る良い映画だった。

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映画「老親」から考えた事

2008年01月17日 | TV・映画・音楽・美術

 一昨日夜、BS映画「老親」を見ただろうか。
 老親の介護を誰がどうするのかがテーマの映画だったが、子ども夫婦のそれぞれの生活の自立も絡めていて興味深かった。
 
 あらすじはこうだ。
 奈良で両親と同居していた長男夫婦だったが、夫が東京に単身赴任して7年間、嫁はひたすら夫の老親二人の介護と子育てに明け暮れた。やがて姑が死去したが、葬儀の後で親戚中から長男の嫁としての介護の仕方や態度が悪かったと非難された。
 夫が大阪に転勤になったのを幸いに、仕事に逃げて子育ても介護も妻にまかせっぱなしを決め込んできた夫に、妻は離婚を請求する。これからは嫁として期待される生活ではなく、自分の人生を生きたいという理由だった。従って財産分与はしてもらわなくて良いと言うのだ。

 夫婦が離婚後、妻に先立たれた舅は長男である夫が同居して面倒を見る事となったが、その舅が家出をして息子と離婚した彼女と子どもが暮らす家へ転がり込んだのだ。
 彼女は生活のために仕事をしているため、舅に自分のことはできるだけ自分でやってくれるなら同居しても良いという。今までやったことのない炊事をすることになった舅は、失敗しながらも一生懸命頑張ってやろうと努力するのだ。

 とまあこんな具合に、一人の人間として老親も息子も嫁(離婚後の彼女)もそれぞれが自立した人間としての生き方を模索し、かつ老親の介護のあり方を考えさせられる映画だった。

 今日、私は病院の待合室で映画と似た夫婦に会った。
 認知症の父親に付き添った息子とその妻が診察を待っていたのだが、車椅子に座って、休み無くお喋りしている90才に近い父親の傍で細やかに世話をしているのは妻、少し離れた場所の椅子に座って、まるで他人のような顔をして新聞を読んでいるのが長男らしい息子だ。
 父親が「息子は帰ったのか」と聞くと、妻が「すぐ傍に居るよ」と教えて安心させていた。私はどうして息子が傍に居てやらないのか不思議だった。自分の親の介護を嫁としての妻に丸投げしている様に見え、自分の親なのに責任感が薄弱のように感じた。(後で分かったのだが、息子は会社を休んで車で病院に送迎する役割をした様だった)

 すでに三十年も前から、老親の介護の仕方は変わった。介護を含めた全生活を施設にお任せする事が一般化したのだ。それも悪いことではないと思うが、心のケアーは家族や兄弟姉妹などの近親者が担う必要があると私は思う。

 現代は少子化で、一人息子と一人娘が増えているのだから、夫婦で4人の老親を看取らねばならないのだ。もう男だから、女だから、嫁だからと言って居られないだろうと思う。それぞれができることを精一杯するのが一番ではないかと思うのだが、どうだろうか。

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TVアニメ「赤毛のアン」

2007年12月12日 | TV・映画・音楽・美術
 皆さんの中で、アニメを見ている方はいるのだろうか。居るとしても「赤毛のアン」を見ている人は少ないのではと思う。
 私が「赤毛のアン」に出逢った最初は、子どもの頃に読んだ児童書一冊だった。
 真っ赤な髪、そばかすだらけでやせっぽち、そして孤児院で育った夢見る少女アンに不思議な魅力を抱いた事を覚えている。
 次に出逢ったのは、確か40才の頃、外国の映画でだった。こちらは続編「アンの青春」までの2本を見た。アンが恋愛をし結婚する迄の映画だったと記憶しているが、その愛に溢れた純粋な生き方を描いていて感動した。
 それで私は本をしっかりと読みたいと思い、文庫本を買って来ては次々と読み進めた。
 全部で10巻だったと思うが、作者モンゴメリーの、主人公アンとその回りの人々の日常生活に対する優しい眼差しが全編に溢れていて、当時の疲れた私の心を温かくしてくれた。
 また、孤児のアンを引き取って育てた独身のマリラには、理想的な母親像、教育者像を伺う事ができた。本の随所に教師だったモンゴメリーの児童観、教育観を読み取ることができたのも、私が惹かれた理由である。

 児童書ではアンの子ども時代しか書かれていないが、やがてアンは結婚し、数人の子どもの母親となり、子育てに苦労と喜びを感じながら、カナダの東部のプリンスエドワード島で医師の夫と地域に無くてはならない人になっていくのだ。
 (その頃、アンのテーマパークを作った町もあったが、今は閉鎖されてしまった。)

 そんな訳で、今は毎朝民放で放映している再放送のアニメを、再び楽しみにして見ているのである。
 先週、図書館で本を見てみたが、児童書も文庫本も訳者が同じで、文章も同じだった。人の心を打つ少女の成長物語は、これからも世界中の人に愛され続けるだろうと思っている。


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私が好きなもう一人のピアニスト

2007年11月08日 | TV・映画・音楽・美術

私の好きなもう一人のピアニストは、「スタニスラフ・ブーニン」である。
彼は1985年のワルシャワのショパン・コンクールで躍動するピアノを弾いて、堂々優勝した人だ。その時、彼はまだ18才だった。
 

私が彼を応援したいと思ったのは、ピアノ演奏の表現力の豊かさに感動したのは勿論だったのだが、他の理由もあった。
先ず彼が、当時のソヴィエト政府によって演奏の自由を制限されていたことを知ったことだ。
そればかりではなく、私もミーハーの部類に入るかも知れないが、彼の生い立ちを知ったことも大きい。

彼は、父音楽大学のピアノの教授を父親とし、ピアノ講師を母親として生まれたのだが、夫母は愛人関係にあり、父親には正式の家族がいたのだ。
父親はブーニンが生まれる前に母の元を去った。

母親は驚くことに、生まれてきた男の子に父親と同じ名前を付けた。そしてピアノを特訓したのだ。母の子育ては、まさに父親に対する女性としてのプライドをかけた必死の子育てであり、教育だったのだろうと私は女性の一人として思ったのである。
 
「ブーニン」が優勝後も、ソヴィエト政府は正式な結婚をしていない母子に冷たかったらしい。
狭いアパートでレッスンをすると、まわりから煩いと苦情が来る。防音装置のついた部屋を要求しても聞き入れて貰えない状況の中で、苦労したらしい。
先月29日の朝日新聞夕刊の記事によると、彼は優勝後の革命記念日にクレムリンで演奏する事になり、その前に文化省の大臣から何を弾きたいか質問されたらしい。

「勿論ショパンです。」と答えたら、「ショパンみたいなブルジョアではなく、誰かソ連の作曲家の曲は弾かないのか。」と言われたのだと言う。音楽芸術への無理解ぶりに若いブーニンは幻滅したのだろう。
また、世界的に有名になり、外国に出入りするようになったブーニンは、ソ連政府から監視され続けたのだ。
彼が優勝した翌年の夏、私がソヴィエト旅行をした際に、彼のCDを買いたいと思って探したが見つからなかった。店の人はブーニンの名を告げても知らない様子だった。
 
当時のある雑誌の記事だが、その頃、仲良くしていたガールフレンドが、夜、ブーニンの家を辞した直後に車に轢かれて死亡するというショッキングな事も起きたらしい。
 
1988年6月、ブーニンと母親は西独に亡命した。
1991年12月にソ連が崩壊した時、私はブーニン親子が3年早すぎた亡命を悔やんでいるのではないかと思ったりしていたが、今考えると、やはり自由のない中では、芸術家として一刻も生きられなかったのだろうと思っている。
朝日新聞によると、時速160kmの車で国境を越えたらしい。

その後、日本のブーニン支援者の助けを得て、「洗足学園大」の客員教授に迎えられ、日本女性と結婚し、全国で何度も演奏会をし、日本のファンに熱狂的に迎えられたのである。
私も2度、演奏会に行った。CDも数枚買って、数え切れないほど聴いた。

以上が私が彼を応援する理由である。
 
彼が優勝してから23年が経ち、41才になったブーニンは、現在日本で1年の1/3を過ごすという。今月、東京、大阪、仙台、札幌などで演奏ツアーをするというので、円熟した彼の演奏を多くの人に聴いて欲しいと思う。
 

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フジ子・ヘミングの演奏に感嘆

2007年11月08日 | TV・映画・音楽・美術
 先日子どもと食事をした時に「フジ子・ヘミングの奇跡」のCDを渡された。帰ってから聴いてみたら凄い!!

 彼女の半生は何度もTVでドキュメンタリーとして放映されているので、知っている人は多いと思う。
 レナード・バーンスタインに演奏力を認められながら、パリの極貧生活で風邪をこじらせて突然耳が聞こえなくなり、その結果演奏会で失敗する。
 そんな体験を乗り越えたからこそ、心に訴えかけるような強い響きの演奏ができるのだろうと思った。

 彼女の得意な「ラ・カンパネラ」が最初に録音されているが、素晴らしい。
 「ハンガリー狂詩曲」も「革命」も、彼女のような力強く哀調を帯びた演奏にはなかなか出会えないと思った。そんな訳でここ数日、ずっと彼女の演奏に聞き惚れているのである。
 ピアノ曲が好きな方には、是非一度、聴いてみて欲しい。
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