《アジャンター石窟寺院》
「アウランガバード」のホテルを出てバスで北東へ2時間走り、デカン高原の西北部にある「アジャンター石窟寺院」を目指した。
途中は農村地帯が続き、綿花、トウモロコシ、小麦、じゃが芋などが栽培されていた。牛や山羊も放牧されていた。
駐車場でバスを降りてから、小さなみやげ物屋が並ぶ所を通り抜けて暫く歩くと、エコバスが待っていた。このリムジンバスの運行は、日本の援助とノウハウで遺跡がある周囲の環境保全策の一つとして行われているという。
1819年、虎狩をしていたイギリス騎兵隊の士官が偶然に見つけた「アジャンター石窟寺院」は、インドで唯一の素晴らしい仏教壁画を今に残すところとして1983年に世界遺産に登録され、保全活動が行われていた。
インドの夏から秋にかけての高温多湿な気候は、壁画などを損ないがちで、既に古い壁画のほとんどは失われてしまったので、この「アジャンター石窟寺院」は超一級の価値がある壁画だそうだ。
石窟寺院は、渓谷を馬蹄形に大きく湾曲して流れる「ワーグーラー川」の外側沿い600mに渡って、断崖の岩山を削って造られていた。その内部には幾つもの僧房があり、壁や天井の至る所に素晴らしい仏教壁画が描かれていた。(しかし壁画保全のためにフラッシュ撮影は禁止されていたので、良い写真を撮ることはできなかった)
全部で29窟あるうち、資料によると中央部分の5つは紀元前1世紀頃の前期窟であり、その他は紀元5世紀の後期窟だという。
前期窟の内部は簡素で仏像遺跡が無い。当時の礼拝対象は「ストゥーパ」だったらしいのだ。
後期窟は、中央インドを支配していた「ヴァーカータカ帝国」の篤い信仰を持った家臣たちが、財と威信をかけて造営したと思われている。
しかし、帝国が崩壊すると「アジャンター石窟寺院」も放棄され、原始林の中に埋もれてしまったのだ。
今から1500~2100年も前に、この地で石窟を何年もかかって少しずつのみで掘り刻み、寺院を造って仏の姿を描いたり刻んだりした人たちはどういう人たちだったのだろうと、私は思いを馳せた。
帰りにまたみやげ物を売る露店の間を通った時、「エレファンタ石窟寺院」の階段にあった露店で気になった「ガンジー像」があったので、現地ガイドに「材料は何ですか。」と聞いて見た。答えは「漆喰を固めて色づけたものです。」 私は買うのを止めた。
《エレファンタ石窟寺院》
「ムンバイ」の街を通り抜けて「インド門」でバスを降り、門の下の船着場から小型チャーター船で沖合いに浮かぶ「エレファンタ島」に向かった。
約1時間で島に着き、船着場から桟橋を渡り、山の中腹まで結構な高さがある階段を登った。階段の両側には、テントを張った簡易な土産物屋がぎっしりと並んでいた。
この日は陽射しが強く、気温は31℃あったので、-21℃の日に家を出た私にとっては50℃も温度差がある中での観光だった。
この石窟寺院は、16世紀に上陸したポルトガル人が発見した時、石に彫った多くの象があった事から「エレファンタ石窟寺院」と言われる様になったという。
石窟は6~8世紀に造られた物だというが、最大の見所は、高さ6m、広さ40m×40mの空間を20本程の太い脊柱が支えていて、その一番奥にある「シヴァ神」の三面上半身像だ。
このヒンズー教の石窟寺院は、1987年に世界遺産に登録されている。
他の寺院は、ポルトガルに破壊されてしまったという。
帰りも急な階段を下りて船着場に戻ったが、土産物屋にあった茶色の木彫りの様な小さいマハトマ・ガンジー像に目が止まった。
また、チャーター船に乗って「ムンバイ」に戻った。船から見た大型タンカーが行き会う姿に、アラビア海の交易の盛況ぶりが分かった。
昼食後は空港に行って、15時発の航空機で「ムンバイ」の東方350kmの「デカン高原」にある古くからの商業都市「アウランガバード」に行った。
そこは、標高571mの高原にあって、「アジャンター石窟寺院」「エローラ石窟寺院」を観光するための拠点都市なのだった。
≪ムンバイ市内観光≫
6日目は7時にホテルを出て、インド最大の商業都市、「ムンバイ」の市内観光から始まった。
歴史をざっと振り返ると、16世紀のこの町は西のアラビア海に面した小さな漁村に過ぎなかった。
1498年にポルトガルの「ヴァスコ・ダ・ガマ」がアフリカの喜望峰を経て「カリカット」に到着し、やがてポルトガルは1510年に「ゴア」を植民地にし、1534年には「ムンバイ」周辺の7つの島をスルタンから取得した。そして中心的な島に要塞や教会を建てて、「ボン・バイヤ(ボンベイ)」(良港の意)と呼んだ。
ポルトガルの支配は1961年まで続いたが、植民地を広げることは無かった。
一方イギリスは、東側のベンガル湾に面した「マドラス」(チェンナイ)に築いた要塞を拠点に1605年に「イギリス東インド会社」を立ち上げ、香辛料、綿布などの独占的な交易を行っていた。オランダが設立した「東インド会社」の規模も大きかったが、1661年、ポルトガルとイギリスの王家の結婚を機に、「ボン・バイヤ」はイギリスに贈与された。
その後イギリスはこの「ボン・バイヤ」を埋め立て、街づくりをした後、ここを足がかりにして、インドの支配に乗り出した。そして19世紀にはインドの大半がイギリスの植民地となって行った。『沈まぬ太陽』の大英帝国の中心は、インドだったという。
私達は朝ホテルを出てから「インド門」の近くまで、「ムンバイ」市内を通り抜けた。
周辺人口まで含めると1900万人を有する「ムンバイ」は、イギリス植民地時代に建てられたヨーロッパ風建築が幾つも残っていた。
海岸ではランニングに汗を流す人や散歩をしている人が大勢いる一方で、冷たいアスファルトの軒下で汚れた毛布1枚をすっぽり被って寝ているホームレスの姿も沢山あった。中には幼児を抱いてビニールシートに座っている女性なども目に入り、女性が路上生活をしているとどうなるか、考えさせられた。(人口密度は世界一だそうだ)
「ウイキペディア」で「ムンバイ」調べると、
『1991年から2001年までの10年間で、州域外からムンバイへと移住してきた人々の数は112万人におよぶ。この経済成長に伴う急激な人口増加に伴い、他の著しい経済成長を見せている発展途上国の都市と同様、ムンバイは貧困、失業、医療、生活水準、教育水準などの面で広範囲に及ぶ問題を抱えている。居住地の不足も深刻で、住民は住環境が悪いにも関わらず高価な住宅に住まざるをえない状況にある。さらにこの人口増加にインフラ整備が追いついていないため、住民は異常に混雑した鉄道や道路での長時間の通勤を強いられている。』
『2001年のインドの国勢調査によれば、ムンバイの人口の約54%はスラムに居住している。ムンバイ中心部のダーラーヴィー地区は、アジア第2の規模を持つスラム街であり、100万人以上の住民がここに暮らしている。』
などと書いてあった。
現地ガイドの男性は、『水道が朝晩2時間も出ない、電気も朝晩停電する、収入は上がらないのに税金は上がる。こんな生活状況を何とかして欲しい。』と私達に切実な口調で話してくれた。
(路上生活者が多い地区を通る時、何故かバスが猛スピードになり、全く写真が撮れなかった。最初の写真は、水道水の配管の背後に見えるおびただしいバラックと高層マンションだ)
「インド門」は、1911年に英国王「ジョージ5世」がインドに来た時にその記念に建てられた門で、イギリス支配の象徴的存在だ。2004年に世界遺産に指定された。
「エレファンタ島」に行くために乗った船から見ると、「インド門」の左側背後に建つ「タージ・マハールホテル」が良く見えた。
このホテルは、インド人の大富豪「ジャムシェード・ターター」が1903年に建てた世界有数のホテルだ。
彼が外国の友人と夕食を食べるためにあるホテルに行った時、インド人の入館を断られた事を契機に民族意識に火がつき、外国人にも通用する一流ホテルを建てたのである。
鉄骨はパリのエッフェル塔と同じものを用い、どの部屋からも海が見え、船室に居るような錯覚に捉われる設計になっているらしい。
≪「ボーパール」の世界遺産見学②≫
②「サンチー・ストゥーパー」
旅行5日目は午前中、世界遺産「サンチー・ストゥーパー」を見学した。
「サンチー村」に程近い標高100mの丘の上に、3つの「ストゥーパ」(仏塔)が建っていて、1989年に世界遺産に登録されたところだ。
バスを降りて整備された参道を登って行くと、ブーゲンビレアの木が真っ青な空の下で美しく並んでいた。
最も古い仏塔は、紀元前3世紀に仏教をインドに広めた「アショーカ王」が建てた大仏塔(第1塔)で、直径37m、高さが16mもある巨大なモニュメントだ。下部はこの地の石、上部はレンガを積んで造られたものだという。
この仏塔を取り囲むように東西南北に4つの「トゥーラナ」(塔門)が建ち、仏塔をぐるりと2重の塀が覆っているのだ。これらは紀元前2世紀から紀元1世紀頃に追加工事をして完成させたらしい。
「アショーカ王」が建てた「石柱」も、2000年を越えてもなお新しかった。
大仏塔の南門の近くに紀元前2世紀に建てられた小ぶりの第3塔があった。
ここには仏陀の高弟だった舎利弗と目ケン連の遺骨が納められていたが、現在は敷地内のヴィハーラ寺院に祀られていると言う。
紀元5世紀に仏教が再び盛んになった時に置かれたという「釈迦の像」は、その後イスラム教が広まると破壊されたという。
現在のインドには仏教徒は1%にも満たないが、仏陀の生涯や悟りの象徴としての菩提樹、仏陀の教えなどを描いた実に精緻な「トゥーラナ」をじっと見ていると、古代の人々の仏教に対する信仰心の強さが伝わって来て、インドで生まれた仏教が篤い信仰を集めていたという確かな証をここに見たと思った。
昼食後はボーパール空港から1時間15分を飛行して、直線距離で南南西に650km離れた「ムンバイ」に行った。
〔あわや迷子になる所だった〕
4日目は「アグラ」のホテルを早朝に発ち、駅に向かった。インドの特急「シャタープディ・エクスプレス」に3時間弱乗って、「アグラ」から400km南の「ボーパール」に行くためだ。
「アグラ」駅は物凄く混んでいた。私は慣れないキャリーバッグを持ってグループの最後に付いて歩いたが、駅からホームへの出口でグループを見失ってしまったのだ。(インドには出口の検札はないので、大勢の人が自由に行き交う)
見ると1番ホームに長い特急列車が止まっていて、出発直前の様だった。もしもその列車なら、乗り遅れたら大変なことになる。乗車口3箇所に走って行って、乗っている人3人に「ボーパール行きですか。」と聞いたが、どの人も「違う。」と答えたので乗らなかった。やがてその列車は動き出した。
ホームは左右にとても長く、人で溢れていて見通しが利かない。それで再び駅に戻り、切符売り場に行った。
切符売り場には10人ほどの人が並んでいたが、割り込んで大きい声で聞いた。「私はボーパールに行くツアーグループを見失いました。どうすれば良いですか。」と。
すると傍にいた背の高い男性が、「リーダーは誰ですか。」と聞くので、「〇〇さんです。」と現地ガイドの名前を告げた。すると「あなたはここに居なさい。探して来ますから。」と言ってくれた。
5分も待っていたら、ツアーの添乗員が私の所に慌てて飛んで来た。ホッとした。
添乗員もグループの人も人数を確認せず、その男性が探しに来るまで、私が居ないことに気づかなかったらしい。
後でガイドの〇〇さんは、「もしも置いて行ったら、私の首が飛んだだろう。」と言っていたが、事無きを得て本当に良かった。私が迷子になったのは初めてだったが、その心細さを初めて味わった出来事だった。
今後は今までよりももっと気をつけて行動しようと、強く反省した。
列車内には1輌ごとに男性車掌が2人いて、軽食が2回(サンドイッチとバナナ、飲み物/カレーのランチボックスとアイスクリーム)出た。私は食欲が無く、食べずにボーパールで列車を降りる時に持って出た。
専用バスの所に行くと、入り口で手を出していたホームレスの少女がいたので袋ごと渡した。無駄にならなくて良かった。
≪「ボーパール」の世界遺産見学①≫
「ボーパール」は人口100万人以上が住むマディヤ・プラデーシュ州の州都で、1984年12月3日に「ユニオン・カーバイト社」が有毒ガスを漏らした事故で2万人以上の死者が出た町として有名である。
①「ビンベドガーの岩窟群」
この町の南方46kmに、1万年前の石器時代から紀元後の歴史時代までに描かれた数百もの岩絵があり、私達はその岩絵を見学しに来たのだった。
地元では知られていた岩絵だが、公になったのは1888年で、1950年頃からは、フランスの「ラスコー壁画」、オーストラリアの「カカドゥー国立公園の岩絵」と比較されて注目され出し、2003年にユネスコの世界文化遺産に登録された所だ。
バスに乗って田舎道を辿った。岩窟群の入り口でテント生活をしている家族とその子ども達が、バスを出迎えてくれた。
さらにそこから少し入ったところでバスを降りた。すでに時刻は16時近かった。
石器人が住居にしていたと思われる洞窟がいくつもあり、その上部に鹿や牛の群れ、象や虎、バッファローやサイなどの狩りの様子、楽器の演奏、踊り、死者の埋葬の様子、騎馬戦に向かう人々の姿、花や花瓶、鳥の群れなどが線画の様な絵で描かれていた。
古代の人々は、自分達の生活を表現したかったのだろうか。
ガイドの話では、色は植物や獣脂でつけられたものらしい。
中には岩の1箇所に「斧で鹿を殺そうとしている人の絵」「牛を使った4000年も前の農業」一番下に「騎馬戦に出かける人々」と、3つの時代の絵が描かれたところもあった。
大昔の人々の生活を想像させられる多くの壁画に、私は壮大なロマンを感じた。そしてこんな遠くにある世界遺産まで来られた事が嬉しかった。
≪「アグラ」市内観光②≫
②「タージ・マハール」
ムガール帝国第5代「シャー・ジャハーン帝」が若くして亡くなった美しい妻のために、22年をかけて建造した廟が「タージ・マハール」である。左右対称の巨大な白大理石の建物は、何度見ても飽きることが無い美しさだが、建築当時はこの建造費のために帝国の経済が困窮したそうだ。
前回は均整が取れた建物にばかり目が行ったが、今回は一杯の観光客にも目を配る気持ちの余裕があった。廟の横の建物側に疲れて座り込んでいる高齢者のグループがいた。
廟の裏を「ヤムナー川」が流れているが左手奥に「アグラ城」が霞んで見えた。
帝は「ヤムナー川」の対岸に自分の死後を祀る廟を黒大理石で建造しようと計画したが、国の財政を心配した三男(後の第6代「アウラングゼーブ帝」)の周到な計略によって「アグラ城」に幽閉され、7年後に亡くなった。対岸には「シャー・ジャハーン帝」が基礎を築こうとした土塁が残されている。
(歴史に「もしも」はないのを承知で言うなら、もしも黒大理石の廟が造られていたら、ムガール帝国の国力は低下して歴史は変わったかも知れないし、現在の「アグラ」の注目度は更に高くなっていた事だろうと思う)
「シャー・ジャハーン帝」の治世は約30年続いたが、その時期はムガール帝国の絶頂期と言われている。
三男は1659年に正式な第6代「アウラングゼーブ帝」となったが、次々に3人の兄弟を殺害した。
長かった治世中彼が手がけた領地拡大は、現ミャンマーに支配されていた東インドの「アッサム」に攻め入って奪還したり、デカンにも進軍して2つの王国を滅ぼし、ムガール帝国で最大の領土を実現した事だが、その帰路、1707年に死去した。
彼はイスラム教スンニ派の誠実な教徒だったが、ヒンズー教、シーク教の教徒を弾圧し教会を破壊した。そのことで幾つもの反逆が起こり、結果的にムガール帝国が勢いを失う運命を招いた。
庭の木に緑色のインコ?が二羽いた。日本人には珍しい鳥だ。
③「アグラ城」
この城は、1565年にムガール帝国第3代皇帝「アクバル帝」が建立した力強く豪華な城で、代々の皇帝の統治と生活の拠点だったのだ。外壁の周りには堀が巡らされ、ワニや毒蛇が放たれていたという。
堀に掛けられた橋を渡って門の中に入った。2人の幼児を連れて一休みしている夫婦に出会った。赤ちゃんを見ると誇らしげな顔で写真を撮るのをOKしてくれた。
前回は1階部分にしか行かなかったが、今回は2階部分に上がり、謁見の間やテラスも見る事ができた。テラスで踊る女性達を王が寝ながら眺める寝台もあった。
「シャー・ジャハーン帝」が囚われていた部屋からは、南東に3km離れている「タージ・マハール」を臨むことができる。帝はどんな思いで死を迎えるまで過していたのだろうか。
(この写真は、3~4cm四方程の大きさの透かし彫りがある壁の1箇所から、かっての帝の目線のつもりで写した)
帰りがけの橋で女性教師に引率された小学生達に出会った。子ども達は日本の子どもと同じように明るく無邪気に見えた。教師の服装はカラフルだった。
≪「アグラ」市内観光①≫
インドのバスの運転席はガラス窓と扉で客席と仕切られていて、運転手の横にアシスタントが乗る。アシスタントは、学校に行っていない若者が多かった。
また、大都市の中心部は道路が整備されているが、それ以外は舗装されていない所が多く、排水溝の整備も遅れていて、6~10月の雨期には雨水が道路に溢れて大変な状況になるらしい。幸い乾期だったので何とか通過はできたが、ほとんどが凹凸路面なので、毎日、激しいバスのバウンドに悩まされた。
さらに都市部の舗装道路でも約100mごとに10cmほど帯状に盛り上げてあって、スピードを出せない様にしてあった。
時には街中を羊の群れや野良牛、野良豚などが歩いているので、交通渋滞が起きたりもした。
バスの窓から見ると、郊外では、小麦、トウモロコシ、米、菜種などが栽培されていた。
①「ファテープル・シークリー」
今回初めて、ムガール帝国第3代「アクバル帝」の城跡が残されている「アグラ」の南西37kmの地迄行った。
3km×1.5kmの敷地を城壁で囲んで、内部に宮廷、モスクなどを5年の歳月を掛けて建造し、1571年にアグラから首都をここに移した。
「アクバル帝」はヒンズーの女性を妻にし、宗教的にはイスラム教に固執せず、ゾロアスタ教、ジャイナ教、キリスト教にも関心をしめして王宮に聖職者達を招き、講義を受けるなどしたという。建築様式には、イスラム教とヒンズー教の融和を模索した帝の考えが伺われる。
しかし、この地は水不足が起きるために、僅か14年でここを離れ、再び「アグラ」に都を移した。そのためか城跡は傷みが少なかった。1986年に世界遺産に登録された。
13歳で王となった「アクバル帝」は、有能な側近に恵まれ、広大な領地を「州」に分け、さらにその中を「県」に分けるなど統治能力が優れていた。18歳頃からは様々な戦いに打ち勝ち、北インド、アフガニスタン、ポルトガルが制圧していたアシールガルなどを支配下に置いた。そして南西部のデカン高原への進出を図ったが、城に残っていた王子「サーリム」に謀反を起こされた。
「サーリム」はムガール帝国第4代「ジャハーンギール帝」となる。
≪「デリー」市内観光・午後「アグラ」へ移動≫
日本から入国したインドの首都「デリー」の観光は昨年11月の「インド旅行」に重なったので、今回は写真を中心に簡単にまとめたい。
①「クトゥブ・ミナール」とその周辺の街中
ヒンズー教の王との戦いに勝ったイスラム王「クトゥブ・ディーン・アイバク」が勝利の記念に建てた高さ72.5m、直径14.3mある巨大な塔。着工は1192年。
(街中の写真は走るバスの窓越しに写したので、ボケたりガラスの反射光が映っているがお許し願いたい。女性はほとんど歩いていない。)
②「フマユーン廟」
ムガール帝国第二代皇帝「フマユーン」の妻が、1565年に夫のために建てた廟。赤砂岩に白大理石をはめ込んで造った美しい建物は、後の「タージマハール」に影響を与えた。
③「ラージ・ガート」
建国の父、「マハトマ・ガンジー」は、1948年1月30日の夕刻、極右翼のピストルで暗殺された翌日、ヒンズーの作法に従って荼毘に付された場所を記念して建てられた黒大理石の碑が「ラージ・ガート」。私は初めて訪れた。
遺灰はインド各地の川に流されたという。
募金箱が設けてあったが、そのお金は彼がカーストの最底辺「ハリジャン」の解放を望んでいたことから、彼らのために使われているという。
庭園では薔薇が美しく咲いていた。
④「レッド・フォート」
第5代ムガール皇帝「シャー・ジャハーン」が1648年に建てた赤砂岩の城。今回も正面では工事が行われていた。
「デリー」市内観光後の午後はバスで5時間走り、南南西200kmにある旧都「アグラ」を目指した。
11月にも来た町だったが、夕方6時過ぎに「アグラ」に着くと、日曜日のためかあちこちで結婚式の準備をする集まりに出会った。
白馬が引く飾り付けられた馬車には花婿が乗っていて、これから花嫁を家まで迎えに行く所だそうだ。
泊まるホテルに着いたら、エレベーターから着飾った花嫁と親族が下りて来たのに遭遇した。女性達の正装のサリーはとても華やかに見えた。
実際の祝賀会は、夜の9時頃から始まり、夜中じゅう踊り飲食するそうだ。
関東、日本海側で降雪があったが、それをぬう様に無事に私はインドの旅行に出発し、帰国できた。
しかし、帰宅後は続けて2日間雪が降り、旅疲れの体で除雪作業をした。
さすがに昨日は疲れがピークとなり、頭もボーッとしていたが、今朝は大分良くなったのでブログを開いた。
当面の悩みはこのプララブログが無くなる事だが、3月初めに他のプロバイダーに移行できそうなので、一先ずこのまま使うことにしたい。
≪概要≫
「三回目のインド旅行」は、8日間中3日間は既に観光した都市や場所が同じで新鮮味はなかった。しかし3回もこの世界遺産に来られたと思うと感慨深かった。
残りの「西インド」5日間の見学は、期待通りの発見と感動があった。
また、出発日の朝-21℃だった当地との気温差が一番心配だったが、今年のインドは気温が低めらしく、最高気温が31度という日が1日あったものの、残りは26~28度と過し易く、快適だった。
ただ今回はT旅行社で行ったので、自由な時間が全く無く、近くのスーパーにさえ1度しか行くことができなかったのが残念でストレスが溜まった。
しかし、添乗員が若いのに爽やかで、良く気が利く女性だったのが幸いだったし、参加者が12名と少なかったのも良かった。
明日から順次、今回の旅日記を書きたいと思っている。
まだ私は寝ていたが、当地の6時の気温は今朝も-19℃あったらしい。家も冷え切っている。最高気温は-7℃の予想だという。
外は冷凍庫という所で暮らしているので、断熱をした家の中で暖房を焚き、重ね着をして、温かい飲食物を摂って、何とかこの厳寒期を凌いでいる。
私は居ようと思えば室内にいることができるが、土木、建設、港湾、漁業、保線管理 交通整理など屋外で仕事をしている人達の厳しさは如何ばかりかと想像する。
昨日午後にガソリンスタンドに寄った。朝6時から働いていたという店長さんは、「今日の寒さには参りました。」と泣きそうな顔をしていた。心から「寒い中、お疲れ様!」と言って帰って来た。
いよいよ明日の午後、新千歳空港から成田へ行き、成田のホテルで前泊後、8日出発の「インド旅行」に出かけることにした。
「インド」は昨年の11月下旬に行ったばかりだが、以前書いた通り、苦労して自力で取ったビザの有効期限(6ヶ月)内に再訪して、広大な「インド」への旅行を終わりにしたいと思っての事だ。
今回は3回目なので、「ムンバイ」「デリー」「アグラ」は既に行った所で重なるが、「ボーパール」「エレファンタ」「アジャンタ」の世界遺産を見て置きたいのだ。
前回は気候的に過しやすかったが、今回は南の「ムンバイ」では最高気温が32~33℃になるらしい。私の今いる地域の最高気温-5~-8℃と比べるととんでもない猛暑だ。
今回は北の「デリー」から徐々に南下する日程だが、気温のギャップがあり過ぎるので体がうまく順応してくれるか少し心配だ。
しかし、昨年の3月に28~36℃の「スリランカの旅」を体験しているので、まあ何とかなるだろうと思っているのだが、甘いかも知れない。
2ヶ月余り前の経験を生かして、虫射されの薬、除菌ウエットテッシュを忘れずに持ち、胃腸を壊すことが無いように消化薬、下痢止め薬も持って、飲食には細心の注意を払いたい。
折角行くので、前泊を入れて10日間の旅を私なりに楽しんで来たいと思っている。
暫くブログを留守にするので、宜しく。
皆さんも、今猛威を振るっているインフルエンザにどうか気をつけて…
今朝は今冬最低の気温だったらしい。6時20分に起きた時は-13℃(室内+10℃)だったが、インターネットで調べたら午前3時の気温が-18℃だったらしい。
ニュースでは、今朝の北海道内のある場所の最低気温は-25℃と報じていた。私もかってそういう厳しい地域で暮らした事があるが、今の自分ならもう耐えられそうにないなぁ。
前回の「インド」旅行で、とうとう3年間利用したスーツケースの車輪部分1箇所と肩部分1箇所が破損してしまった。
いつも15kg以上の重い荷物を入れて酷使したせいだ。そのスーツケースではかれこれ二十回近く旅行した事になり、十分に元を取れたと感じている。
次回の旅行はまた「インド」なので、3回乗る小型国内線飛行機に預けるスーツケースの制限がまた15kgなのだ。それで今回使った古い重いスーツケースがあるが、思い切って軽めのスーツケースを新調する事にした。
古いのは重いだけあって作りががっしりしている。それは30回近く使ったが、壊れる様子は今のところ全くないので、捨てずに持っていようと思っている。
店では凄く軽量なのもあるが、本体のプラスチックがペコペコする位薄くて弱そうだ。なので重量5.0kgの、少しガッチリしたのにした。この手は今は人気が無いのか、価格が12,000円と安く買え、ラッキーだった。
前回の「インド」でも国内線の小型飛行機に3回乗ったが、スーツケースの中身を15kg以内に抑えるためにリュックサックに重い物を入れて背負った。
所が帰国後、肩がひどく痛んで腕が上がらない日が数日続いたのだ。湿布を張って何とか回復させたが、次回はそんな事にならないように小型のキャリーバックを買う事にした。
リュックの代わりなので大きすぎない事、車輪が4つ付いていて体に引き寄せて運ぶこともできる事、細かい手荷物を分別できるように内外のポケットの数と大きさ、小物の出し入れのしやすさ(外部ポケットが深過ぎないこと)にも重きを置いた。機内に持参する手荷物なので、ソフトタイプにした。
昨日、少し離れた町の大型スーパーに行ったら、種類も大きさも色々あった。その結果、写真の様なキャリーバッグに決めた。
私が重視する機能性を備え、価格も5,800円と手頃だったのが決め手だった。これで安心してまた「インド」旅行に出られそうで嬉しい。
(何時まで外国に行く事ができるのか分からないが、今は「行ける迄」と考えて、まだそのための少しの投資をしている)
最後になるが、先日のポルトガル旅行で、「オヴィドス」の小さなみやげ物店で見つけた厚地綿織物の「タペストリー」(縦110cm、横幅60cm)の写真を載せる。
実はこの柄と同じ羊飼いと羊の群れに出会ったのだ。テーブルセンターにも壁掛けにも椅子の背当て布にも、そして古くなったらクッションカバーにするかバスマットとしても使えそうだ。
≪「ダージリン」最後の日、また「カンチェンジュンガ」に出会えた≫
前に書いた様に私の部屋からは「カンチェンジュンガ」が見えなかったので、暖かい服装をして、夜明け前の5;50にホテルの門を開けて貰い、1人で外へ出た。
40m程坂を下ると前方が開けた場所があった。そこで朝日を待つことにした。
昨日の「タイガー・ヒル」よりも山に近いのか、朝焼けの太陽に照らされた「カンチェンジュンガ」がはっきりと浮かび上がった。
ところが電線が邪魔になって、写真をとるのにはどうも良くない。困ったと思っていたら、道路の下に建つ家の男性が、自分の家の庭に下りて来ないかと手招きしてくれた。
インドはレイプ多発国なので一瞬迷ったが、決心して男性が開けてくれた鉄の扉の内側に入った。
そのベランダ状の庭には邪魔になるものは何も無く、素晴らしい「カンチェンジュンガ」と下方に見える「ダージリン」の町の景色を堪能できた。
男性には「どこから来たのか」「どのホテルなのか」と聞かれた。やがて「椅子に座りなさい」「ティーを飲むか」「あなたの写真を撮って上げる」と凄く親切にいわれたが、私は写真だけ3枚撮ってもらった。
15分間程だったが、写真を10枚ほど撮った。その時は安全を考えて部屋にバックを置いて出たので、カメラしか持っていなかった。何もお礼ができなくて残念だったが、男性に心からお礼を言ってホテルに戻った。
4WDとバスを乗り継いで2000m以上の標高差があった山を降りる途中、「1000m以上の場所に生えている杉の木は、1800年代に日本から持って来た苗木を育てたものだ」とガイドが説明してくれた。途中、茶葉を摘んでいる光景にも出会った。
やっと「バグドグラ空港」に着いた。
空港の安全検査はとても厳しく、私がバックに持っていた印鑑を「出して見せなさい。」と言われた。X線では鉄砲の弾の様に写ったのかも知れない。
「ダージリン」は、「ネパール」「中国(チベット自治区)」「ブータン王国」「バングラディシュ」に国境を接した狭い高原地帯であるため、この近辺では時々外国の軍隊や反政府派がテロ事件を起こしているので、この空港の警備が厳しかったのだろうと思った。
現地ガイドが「デリー空港」に向かう航空機の右窓の座席を取ってくれていたので、窓から遥か遠方に白く輝くヒマラヤ山脈が見えた。
3年前に「タイ」から乗り継いで「ネパール」に行った時の事を思い出した。小さな窓から8000m級の山々がズラリと連なる光景を見ながら、遥か昔、「インド亜大陸」と「ユーラシア大陸」が移動して衝突し、ぶつかった時にその衝撃で「ヒマラヤ山脈」ができたという話が本当だと思えた。
インドの旅8日目の夜、「デリー空港」21;15発の「エアー・インディア」はエコノミー席の後方に空席があり、私は中央の3席を独り占めして横になる事ができた。お陰で6時間半位、ぐっすりと寝られた。
成田空港には翌朝8時前に着いたので、10;20の航空機で成田から新千歳空港に乗り継いだ。家には昼過ぎに無事帰宅できた。
広いインドの世界遺産の中で、もう少し見たい場所がある。折角苦労して取った6ヶ月有効のビザがあるので、その期間内に未だ見ぬ場所の良いツアーがあれば、もう一度行きたいと思っている所だ。
これで長かった旅行記を終えるが、読んでくれた皆さんに感謝しつつ、今回の記事を通してインドに更なる関心を持って戴けたら嬉しい。 (完)
≪「ダージリン」周辺の観光≫
「トイ・トレイン」乗車体験終了後、「グーム僧院」と 「チベット難民センター」「ヒマラヤ登山学院」の見学に行った。
「グーム僧院」は1850年に創建されたところで、チベット仏教の寺院と僧房があった。
ヒマラヤ山脈の向こうにネパールや中国のチベット自治区があるこの地には、チベット仏教を信仰する人たちが山を越えて来て以来、信仰を守り伝えているのだろう。
「チベット難民センター」に行くには、急傾斜の山肌に作られた狭い道を登るしか道が無かったので、危険この上ない走行振りに冷や汗が出た。
この施設は1959年に中国から亡命して来たチベット難民の自立を支援するためにできたという。何棟かの建物が建っていた。
その一つでは、老婦人達が糸車を使って羊毛を紡いでいた。また別の建物では、糸から敷物を織っていた。民族的な小物や絨毯を売る店もあった。みんな優しかった。
「ヒマラヤ登山学院」は、駐車場で車を降りてから10分程坂を上った先にあり、壁一面に登山の影絵が描かれていた。
また、直ぐ傍には「ヒマラヤ登山博物館」が併設されていて、ヒマラヤ登山の全記録が展示されていた。(写真撮影は禁止だった)
1953年5月29日に人類初のエヴェレスト登頂に成功した「テンジン・ノルゲイ」と「エドモンド・ヒラリー」のその時の登山服や靴、ロープなども展示されていたが、余りの簡単な装備に驚いた。前庭には模型が作ってあった。
また、日本人登山家「田部井淳子さん」が、1975年女性としてエベレストの初登頂に成功した時の写真と記録もあり、日本人として誇らしかった。
(現地ガイドが「女の子として初めてだった日本人の記録もあります。」と見学前に説明したので、見学後、私は彼に「展示には女性登山家とありますから、『女の子』ではなく、これからは『女性』と言ってくださいと頼んだ)
「登山学院」の下は、傾斜地を利用して「パダマジャ・ナイドゥ」動物公園が作られていた。
ここには絶滅危惧種を中心にした動物が集められていたが、レッサーパンダ、ユキ豹、黒豹、狼、この地方の熊や平らな角のヘラ鹿などが珍しかった。それぞれの囲いが凄く広かったので、どこに居るのか探すのも大変だった。
この後、紅茶店に案内されたが、外国人向けの店らしくかなり高価な価格が付けられていたので、その店で私は買わなかった。
≪世界遺産「トイ・トレイン(ダージリン・ヒマラヤ鉄道)」乗車体験≫
「タイガー・ヒル」で「カンチェンジュンガ」を見た後、1881年に開業したアジア最古の登山鉄道、世界遺産「トイ・トレイン」に乗ることになった。
再び4WDに分乗して「グーム」駅まで山道を下った。「クルシャン」駅から蒸気機関車が客車を牽引しているが、私達はそこから2駅先の標高2258mの「グーム」駅を11;05に発って、標高2134mの「ダージリン」駅まで、緩い下りになっている2駅間を約1時間かけて走る列車の座席を予約していた。
駅に蒸気機関車があったが、まるでおもちゃの様に小さかった。その傍で交代で写真を撮ったりした。
機関車の下に、61cm幅しか無いレールの上に砂を落す装置が2箇所造られていた。
列車を見ているネパールの女性達がいた。
2輌連結の列車は指定席になっていて、実際に乗り込むと、案外それ程狭くは感じなかった。しかし、窓やシートは決して綺麗ではなかったし、半透明の天井にはごみが乗っていたので少しガッカリした。煙を出して走る蒸気機関車だから、仕方が無いかと思って自分を慰めた。
列車は20分後に大きいカーブがある「バタシア・ループ」で5分間停車した時、全員が降りて景観を眺めた。
私は「トイ・トレイン」の写真を撮った。機関車が後ろ向きになって客車を牽引していた。この方が牽引力が大きいのだそうだ。
再び出発したが、グループの2人が乗って居ないという声でガイドが列車を停止させた。2人は実は2輌目に乗っていたのだが、車輌間の行き来ができなかったので座席に戻れなかったという。ちょっと驚いた出来事だった。
ガイドの説明では、時々故障するが部品は無いので、全てあるものを修理したり、新しく作って動かしているのだという。
私自身は1970年頃まで蒸気機関車の列車に乗っていたが、こんなに小さな機関車の牽引力には驚いた。さすが蒸気機関を発明し、産業革命を起こしたイギリスが造ったものだと思った。
≪「カンチェンジュンガ」の朝焼け≫
5日目朝は4時半に起きて5時半に懐中電灯とカメラを持ち、暖かい服装をして4WDのラウンドクルーザーに分乗した。目指すは標高2590mの「タイガーヒル」だ。
狭い急傾斜のでこぼこ道を上り、30分以上かかって「タイガーヒル展望台」に着いた。
そこの建物の3階に上がり(外と2階と3階では展望料金が異なるらしい。3階は外国人が多く、ミルクティーのサービスまであった)、大勢の観光客と一緒に標高8586m、世界で3番目に高いインドの最高峰「カンチェンジュンガ」の朝焼けを待った。
じっと待つこと30分程。右側の東の空が赤くなり始め、しばらくすると反対の西側に太陽に照らされて色合いを変える「カンチンジュンガ」が雄姿を現した。
古いデジカメで写真を何枚も撮ったが、果たして上手く写ったかどうか。夢のような感動の時間が流れていった。
このようにはっきりと姿を見られる日は、そんなに多くないらしい。
下を見ると「チベット仏教」の旗「タルチョ」が揚がっている場所に、大勢の観客がいた。
①6;27 ②6;45
③7;02
④7;13
暫くすると「カンチンジュンガ」よりさらに西方、遥かに離れた場所に、かすかだが「エベレスト」(8848m)の頂が見え出した。
「エベレスト」は隣国ネパールの山だ。3年前にネパールに行った時、遊覧飛行でその上空近くまで行った事があるが、インドからも見られたことは嬉しかった。
「エベレスト」は、幾つもの山並みの遥か遠くに小さくしか見えないので、私のカメラで写すのは無理だろうと思ったが、とりあえず試しに撮って置いた。
帰りがけに別の展望場所にも寄った。
⑤7;15
⑥8;15
ホテルに戻り、朝食を食べたが、仲間達は感動覚めやらぬ様子でそれぞれ口々に「カンチェンジュンガ」をこの目で見た感想を語っていた。確かに今回は季節と天候に恵まれ、本当にラッキーだったのかも知れない。