花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

ネパールの旅 (7)

2010年12月05日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

4日目となる11月22日は、早朝に起きて、まだ暗い5;30にバスに乗り、ポカラの北東、標高1600mの丘・サランコットに向かった。
駐車場でバスを降り、さらに100m程登ると土産屋の展望台があった。
ガイドは写真を広げて、これから朝日が昇ると見えるかも知れない光景を説明した。中央に尖がった形のマチャプチャレ6993mがあり、その両側にアンナプルナ山群7219~8091mが見えるのだという。①
マチャプチュレはネパールのマッターホルンといわれる山である。標高が高い山が低く見えるのは、遠くにあるからだと言われて納得した。
しかし、20~30分、丘は雲海に包まれていた。②

 ① ②

太陽が昇った。
しばらくすると遥か遠くの雲の中からマチャプチュレが姿を現した。
私は数度シャッターを切ったが、残念ながら私の小型カメラでは山を捉える事が出来なかった。僅か10分程でマチャプチュレは、立ち込める雲に覆われてしまったが、私は空にピンク色に輝いた神々しい山の姿を忘れないようにしたいと思った。

土産屋から写真を2枚300ルピー(約390円)で買って、バスに戻る事にした。
若夫婦の傍で2人の子供が手伝いをしていた。鶴の折り紙を上げたら喜んでくれた。③

ホテルで朝食を食べた後、自由時間が1時間半あったので、友人とホテルの周囲を散策した。
道路が広く、両側には軒を連ねて各種の商店が続いていた。
みかんやトマトなどを売る荷車も、何台もあった。登校途中の姉妹が来たので、写真を撮らせてもらった。④

 ③ ④

そのうち「日本語文化センター」の看板を見つけたので探して行って見た。⑤
中に入って、日本語を教えているという青年と話をした。今は6人の学生が習いに来ているらしかった。
その近くには、今まで見たことがないような綺麗な住宅が幾つも建っていた。⑥ ガイドブックで調べると、昔からポカラは貴族たちのリゾート地として人気がある町だと書かれていた。多分今もネパールの富裕層が好んで暮らす街なのだろう。

 ⑤ ⑥

11;30、再びバスでホテルを出発し、タシリン・チベット村を訪れた。ここは1959年のチベット動乱の時に、中国からネパールへ逃れたチベット難民が造った村なのだ。⑥
敷地内に、寺院、学校が併設されていた。小さな寺院には、巨大なマニ車と立派な壁画があった。⑦

 ⑥ ⑦

その後、パタレ・チャンゴという所にも寄った。フェワ湖から来る水が深い地中に吸い込まれる際、滝のようになっている場所だ。
説明の看板の傍で、揃いの制服を着た男子中学生が、引率教師らしい人に写真を写してもらっていた。ネパールにも日本の様な見学旅行があるのかもしれないと思った。

その後、フェワ湖の湖畔に行き、店で買い物をした。私は本屋に入り、来年のカレンダーを2つ買った。
1つはエヴェレスト山脈のだ。もう1つはチベット仏教の芸術的な仏画「タンガ」を描いたものだ。⑧ 2つで1200ルピー(約1560円)だった。
カレンダーは使い終わっても、写真で旅の思い出を振り返ることができるため、私は時々、行った国のを買ってくる事にしている。

それからレイクサイドから7人ずつ2艘の足こぎボートに乗って、小島のレストランに行った。
動力源は人力なので、完全エコなボートなのだが、片道15分を1人で漕ぐのは大変そうだった。私も5分程漕がせてもらったが、次第に疲れてきて足の付け根に力が入らなくなった。⑨ 私たちのボートの漕ぎ手だった若者に聞くと、18歳の青年だった。
小島に着くと、3年前から営業しているというレストランでランチを食べた。⑩ 
晴天の日には、ここからもアンナプルナ山群が美しく見える場所らしかったが、霞んでいて見えなかった。ゆったりした時間が流れた。

 ⑧ ⑨

 ⑩











ネパールの旅 (6)

2010年12月03日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

しばらく町の裏どうりを歩いてから①、パタンの王宮があるダルバール広場に行った。②
広場は観光客や地元の人が大勢行きかい、石で造られたクリシュナ寺院(②の左の寺)などの建物が渾然一体となって立ち並んでいた。

 ① ②

12世紀に建立され、本堂が金箔だというゴールデンテンプル③は修復中だった。
ビシュワート寺院には子供の僧侶がいた。僧衣はぼろぼろになるまで脱いではいけないそうだ。④
マチェンドラナート寺院では、猿などの像も手を合わせて寺院にお参りをしていた。⑤

 ③ ④ ⑤

1500年代に3世代の親子が数十年かけて作ったというマルボーダ寺院は、30mの高さの塔に仏像が数千体掘ってあって、建立者親子の執念を感じた。今のは1934年の大震災後に修復したものだ。⑥
次の寺に行く途中、建物の外壁に面白い絵が描かれていた。ガイドの説明では、悪い夫を売りに行く妻の絵だそうだ。⑦
パタンの王宮の一部は、博物館になっていた。⑧

 ⑥ ⑦ ⑧

ざっと見てから路地を歩いた。サリーの布地を売る店⑨が目に留まった。サリーには普通5.5mの布地が必要である。
数人の中学生に会ったが、制服を着ていた。⑩ 高校生位の学生も、皆制服姿だった。

 ⑨ ⑩

パタンを観光後、日本料理店で幕の内弁当の食事を済ませてから、カトマンズ空港へ向かった。
40人乗りの小型飛行機に30分乗ると、標高880mの高原にあるポカラの町に着いた。途中、私が座った山側の窓からは、遠くにヒマラヤ山脈が見えた。10分程写真を撮ってから隣席の人に席を代わってあげた。












ネパールの旅 (5)

2010年12月02日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

バクダプルの観光を終えてから、バスで山道の悪路を北東へ50分登り、標高2100mの丘にあるナガルコットのホテルに向かった。
ここはヒマラヤ山脈の展望台で、ホテルが幾つもあり、夕日を浴びて赤く染まるエヴェレストやアンナプルナが見えるはずだった。①
ホテルのベランダに上って見たが、その日はガスが深く立ち込めていた。
暫くして僅かにガスが切れた時、幾重にも重なる山の彼方に、夕日に染まる標高7246mのランタンの姿を仰いだだけだった。②
私は持って来た双眼鏡でも覗いて見た。ランタンの雪に覆われた山肌に幾つもの筋と穴のようなへこみが見えた。

翌朝はまだ暗い早朝に起きて、気温が3~4度とかなり低いホテルのベランダに上って日の出を待ったが、霧が深く、遂に山は姿を見せなかった。

 ① ②




3日目は、7;40にバスに乗り、ナガルコットの丘から昨日上った山道を下って、カトマンドゥーの南の古都・パタンに向かった。急なカーブが続くため、気分が悪くなった。途中の狭い交差点で私たちのバスと車が接触したが、互いに何もなかったように別れた。
バスが止まっている時、角の物売りの様子を写した。シートの上にビニール紐、櫛、練り歯磨き、シャンプー、ヘアーピン、マニキュアなどを並べていたが、本当にこれで商売になるのだろうかと訝った。③

昨日通ったバクタブルを通った。橋に差しかかると河原にバラック小屋が立ち並んでいた。④
ガイドが、ミャンマーから来た難民たちだと説明した。ヒマラヤの雪解け水で川が増水すれば危ない場所なのだと言っていた。私はこの川には比較的きれいなヒマラヤの山の水が流れて来るのだろうが、危険な場所なのだと思った。

 ③ ④

道路工事をしていた所を通った。手袋も長靴も着けずに働く人たちが沢山いた。⑤⑥(バスから撮ったので、窓ガラスの光が反射した)
写真の車に「SUZUKI」という文字があるが、フロントガラスの上部にも大きく入っているのである。ネパールでは、どこの車かが直ぐ分るように大きく表示しているみたいだった。

 ⑤ ⑥

パタンは、チベット語で「美の都」を意味するラリトプルとも呼ばれて来た所で、ダルバール広場を囲むようにマッラ王朝時代の旧王宮や沢山の寺院が立ち並び、ネワール族の仏教徒が多く住む町として発展した。
また、ネワール族は古くから工芸や絵画に優れた才能を持つ人々で、町中には繊細な金細工を施した仏具や仏像を売る店、チベット仏教の仏画「タンカ」を売る店が幾つも目に付いた。
初めに1392年に建てられた五重の塔を持つシバ神を祀るクンベシュワール寺院に行くと、丁度、七五三のお祭りがおこなわれていた。⑦
裕福そうなインド系住民の子供たちが、着飾った晴れ着姿でお参りに来ていたのに出会ったので写真を撮らせてもらった。この子たちは幸せそうに見えた。私の心も一瞬満たされた。⑧
寺の入り口でお供えを売っていた。500ルピー(約650円)でヤシの実、バナナ、色づいたポインセチアの花、水牛のバターがバナナの葉で作った皿に載せられていた。⑨

 ⑦ ⑧ ⑨










ネパールの旅 (4)

2010年11月30日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

ネパールではカトマンドゥー盆地とブッダの生誕地ルンビニ、サガルマータ国立公園、チトワン国立公園の4つが世界遺産に登録されているが、カトマンドゥー盆地は急激な都市化によって、2003年危機遺産に登録された。
私たちは今回、主にそのカトマンドゥー盆地の世界遺産を観光した。

首都カトマンドゥーには、タイのバンコクから航空機で3時間半かけて昼過ぎに着いた。
ネパールは4~9世紀のリッチャビ王朝、13~18世紀のマッラ王朝、18世紀~2008年のシャハ王朝と、長い間、インドからチベットにかけての交易の中継地として栄えた王国が続いた。
空港で迎えの小型バスに乗り、現地添乗員に会って、カトマンドゥーから1.2km東にあるマッラ王朝時代の首都だったバクダプルに向かった。

そこには建てられてからすでに300~500年経つネワール文化の遺跡と町並みが残っていた。
ダルバール広場に案内され、旧王宮①、バコダ②を見てから、30mの高さがある五重の塔を持つニャタポラ寺院③を見学した。階段はわずかだが急だった。
広場に面した古い3階建てのカフェには、大勢の人がくつろいでいた。④ 私は今にも崩れそうだと心配になった。

 ① ②

 ③ ④

タチュパル広場に行くと、1427年に建てられたダッタトラヤ寺院⑤があり、広場を大勢の人が行きかっていた。
また、今朝、動物が生贄にされた場所を掃除する男性を見た。今ではここは、食べるための家畜を屠殺する場所になっているらしかった。⑥

 ⑤ ⑥

バイラブナート寺院⑦の傍の15世紀の建物に、ネワール彫刻の最高傑作といわれる木彫りでできた孔雀の窓があった。⑧

 ⑦ ⑧

その後、バクダプルの裏通りも歩いた。石畳の道路が狭く入り組んでいた。人々は赤茶けたレンガつくりの古い建物を大事に受け継いで暮らしていた。




ネパールの旅 (3)

2010年11月29日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

インド亜大陸は1億年以上昔はアジア大陸から離れていて、その間には広い海があった。しかし、7000万年前に両大陸が接近してぶつかり、徐々に接点の陸地が盛り上がった。そして2500~1000万年前には今のヒマラヤ山脈が作られたというのだ。
ネパールは、まさにこの太古からの地球の営みを感じ取れる国なのだ。

現在は、周囲を6000~8000mの山々に囲まれたカトマンドゥー盆地にある首都カトマンドゥーの標高は1350m、直ぐそばのバクタブルの標高は1400m、カトマンドゥーから直線距離で150km西にある都市、ポカラの標高は880mといずれの町もかなりの高地にある。
そのため日本の沖縄と同緯度でも、気候はほぼ北海道に近かった。

また、6~9月が雨期、10~5月が乾期で、山々がすっきり見えるという乾期の方が旅行には良いと言われているが、今回は飛行機の窓以外からは山が余り見えなくて残念だった。
写真はカトマンドゥー空港からポカラ空港まで飛ぶ機内から写したヒマラヤ山脈である。遠いので良く写らなかった①②

 ① ②

乾期が続く盆地のせいだと思うが、町の中はひどく埃っぽい。
おまけにスピードを出して走るオートバイや車の排気ガスが充満していて空気も悪いので、私たちはマスクをして歩いた。現地の人の中にもマスクをしている人が見られた。③ 白ではなく色つきのマスクをしている人もいた。また、オートバイタクシーもとても多かった。④

 ③ ④

米は、カトマンドゥーでは年1回とれるらしい。インドとの国境に近い南のタライ平原では、年2回とれる所もあると聞いた。
米を収穫した後には、秋まき小麦を植えるのだとか。
平地が少ない山岳地帯では、段々畑を作って土地を有効に利用していた。写真⑤は、バクダプルの標高1800m近い丘の斜面だ。
気候が比較的良いため農産物が良く育ち、穀物の食糧自給率は100%に近いらしい。(日本は40%を切ってしまった)
古都バクタプルの町中で、道路傍のちょっとした空き地を利用して、脱穀した米を乾燥している老人を見つけた。⑥
また、道端では水牛がのんびりと草を食べていた。⑦ 水牛のミルクは成分が濃厚なので、ヨーグルトやバターにすると美味しい。

食糧事情だけは良いので、他に何もなくても暮らして行ける所がネパールの良い所なのだが、逆にこれが原因となって人々の労働意欲が高まらない問題があるのではと私は思う。
ガイドブックによると、外国からの援助金はネパールの年間予算の40%にも上るという。その多くは首都カトマンドゥーに投資される。山間部に住む人々には行き渡らないため、道路の整備すら進んでいないらしい。
現地ガイドは、仕事をしない男性が多い事をしきりと嘆いていた。

 ⑤ ⑥

 ⑦



ネパールの旅 (2)

2010年11月27日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

予定通り7日間の旅を終えて、25日午後、帰宅した。
成田~バンコクの航空機は、往復満席だったので驚いた。
では先ず、ネパールの旅の概要から。

ネパールの国土面積は147000k㎡で北海道の1.8倍程度だ。首都はカトマンドゥー。
そこに36の民族・2530万人(2005年)の人々がヒンズー教や仏教を信仰しながら、異なる50とも100とも云われる種類の言語で暮らしている。
日本人にそっくりな顔立ちの人もいれば、インド系の彫の深い顔立ちの人もいる。またチベット系と分かる顔つきの人も多い。
洋服を着ている人、サリーを纏っている人と服装も様々だ。履物を履かずに裸足で暮らしている人も沢山見かけた。
経済的には世界の貧困国の一つであり、失業者が多く、国連や外国の援助に頼っている国だ。
身分差別があるらしく、貧富の差も目に付いた。

しかし、町を歩いていると、ぶらぶらしている男性の姿がやたら目に付いた。
観光客が集まる世界遺産の寺院で、昼寝などをしている男性が沢山いたし①、昼間からあちこちでカードゲームなどに興じているのにも驚いた。
しかし、カトマンドゥーの狭い道で色々なものを運搬する沢山の荷役の男性に出会ったが、その仕事は実に大変そうだった。②
老人が少しの卵を道端で売っていた。③ また小さなバザールの隅で、靴を修理する老人もいた。④

 ① ② ③

 ④

反面、明るく一生懸命に働く女性の姿があった。
都市では野菜や果物を商売している人の大半が女性だった。大勢の人が行きかうごみごみした固い石造りの道端にシートを敷いて、野菜などを売っているのだ。⑤
また、石の階段を並んで磨いている姿も見かけた。⑥
現地ガイドの話によると、山岳地帯で暮らす人々の湧水を汲んで家まで運ぶ仕事も女性の仕事だと言っていた。
イスラム教の国では女性が外で働いている姿はほとんど見かけられないので、その点、この国の遠い将来には期待できるかも知れないと思った。
日没近くに行った世界遺産の寺院では、7~8歳の女児が煉瓦を切り揃える仕事をしていたのを見て胸が痛んだ。少女はサンダル履きだったが、傍にいた男性は革靴を履き、良い服装をしていた。父親なのだろうか。⑦

 ⑤ ⑥ ⑦


ネパールの旅 (1)

2010年11月18日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

11月19日~25日の予定で、ネパールの旅行に行って来る。
先日の記事に書いたように、ネパールは、入国時のパスポート残存期間が6か月以上なければならないというので、まだ来年の4月まで有効だったパスポートを捨てて、9月にパスポートを取直したし、ビザも必要だというので自分の力で頑張って9月末にそれも取得したのだ。

北イタリアの旅から帰ってからは、雨の日を除いて毎日、庭の花木の冬囲いと庭の片づけに精を出した。
冬囲いは済ませたので、先日は畑に残っていたからし菜と茎ブロッコリーを収穫して、ざっと茹でて冷凍にしたし、菊の花を刈り取って整理した。種から育てた長ネギも全部抜いて少し乾燥させて保存した。
そんな訳で、いよいよネパールである。

ツアーを主催する会社は、先に「アメリカ西海岸巡り」「北イタリア」と同じCT社である。
そして今回の私の同行者は、山友達のYさんである。
Yさんは昨年2月にも「中国雲南省の旅」に同行し、羅平の菜の花畑、石林、麗江の古城、玉龍雪山を観光して来た人で、気心が知れた旅仲間である。

今回は幸いなことに前後泊が要らない日程だ。その代りネパールのカトマンズに行くためには、往復共タイのバンコクに泊まることになる。
新千歳~成田の往復航空券は各自で取るように言われたので、町の旅行社に取ってもらった。明日朝は、7時前に家を出て新千歳8;10のJALに乗る。(ここからだと成田への直行便が限られるので、早朝だが仕方がない)
成田出発は17;15、タイ航空だ。成田~バンコクは約7時間である。

ネパールの気温は、最低が10度位、最高が20度程度というので、過ごしやすいのではと思っている。(ただし泊まるバンコクの最高気温は32度だという)
しかし、添乗員からの電話では、ナガルコットで夜明け前にホテルを出て、朝日が昇る光景を見に行く時とても寒いので、防寒着を用意するように言われている。さてどんな事になるのやら…
今回はトレッキング抜きの行程にしたので、8000m級の山々をじっくりと眺め、写真を撮って来たい。

また、旅行社のパンフレットに、「食事が口に合わない場合も考えられるので、何か食品を用意することを勧めます」と書いてあった。
こんな連絡は初めてだし、私は油っぽい料理が苦手なので、取り敢えず保存性のあるカップ麺や菓子類、味噌汁、チーズ蒲鉾などを買い込んだ。
添乗員の話だと、湯沸かし器は1つのホテルを除いて室に設置されているらしいので、自分で持って行かなくてもいいらしい。前回のイタリアで毎日活躍した小型魔法瓶と緑茶のティーパックはもちろん持つ。

これからスーツケースを出して、荷物を詰める。しばらくの間留守になる事を了解願います。

      






ネパール旅行のビザ届く

2010年10月03日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

9月21日、東京ネパール大使館にビザ取得申請書と新しいパスポート、現金3000円を簡易書留で郵送してから10日経った一昨日、同封した返信用の封筒で私のパスポートが返送されて来た。

パスポートのページを開くと、ネパールのビザが貼り付けられていた。
申請通り15日間の旅行入国許可だ。
万歳!自力で取得できたぞー!
                  

費用は、申請料3000円、簡易書留料往復880円、添付する証明写真撮影料(この写真は、パスポートの更新手続きにも使った)700円、合計4580円だった。
(もしも旅行会社に委託すると、この他に手数料が数千円、場合によっては8000円程度かかる。そのことよりも、もし自力でできるなら、新しい経験を積むことになるのだから)

これでやっと11月下旬に、友人と念願のネパールに行くことができる!!