花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

英国周遊(10)

2012年06月26日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《世界遺産「バース」のローマ風呂》
朝起きると晴天だった。初めてだ。しかし気温がかなり低い。今まで穿かなかったタイツを穿いてバスに乗った。
観光6日目は、ストラドフォード・アポン・エイボンのホテルを出て135km南南西にある街「バース」に向かった。

町の名「バース」は、ケルト語で風呂を指す語からつけられたらしい。ローマ人によって紀元75年に作られた二階建ての温泉施設だ。写真の温泉は吹き抜けだが、地下1階にも大浴場がある。

この温泉は長い間埋もれていたというが、18世紀に貴族の保養地として復元された。その後長い間使われていたが、1978年に閉鎖されたという。
日本語ガイドを借りて中に入り、1時間以上かけて内部を回った。この温泉風呂が2000年近い昔に造られたものとはとても思えないような壮大な規模だった。今でも1日110万リットルの湯が湧き出て、排水溝に流れ出ていた。

   

隣に120年もかかって造られたという1617年創設の「バース寺院」があった。
バースと寺院はカギ型に配置されているが、その前の広場は入場を待って並んでいる人々や行きかう人が多い。それを当てにした歌手やギターリストたちが入れ替わりたちかわりやって来てなかなかなパフォーマンスを披露し、CDを売っていた。

  

バスは、「バース」の近くにある『ロイヤル・クレッセント』に立ち寄った。
ここは18世紀にジョン・ウッドが建てたテラスハウスである。このテラスハウスは三日月型をしていた。現在の集合住宅にも通じる建築だと思った。

         

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。再度クリックするとさらに拡大する場合もあります。

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英国周遊(9)

2012年06月24日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《コッツウオルズの小さな村》
アフターヌーンティーの後は、バスでコッツウオルズ地方に向かった。
雨が降り、風もあったが、先ず廃墟と化した『スードリー城』の庭園に行った。
ここはイングランド王室史上最高のインテリだったというヘンリー8世王の6人の妻たちが暮らした古城だが、市民革命時に破壊されてしまったという。

残っていた建物部分が博物館になっていて、6人の妻を表した人形などが展示されていた。

 1人目 キャサリン・オブ・アルゴン 

スペイン出身、最初はヘンリー8世の兄と結婚したが、兄の死去後、持参金を持ち去られたくないためという理由もあって1509年王が結婚。生まれた2人の男児は直ぐに死亡した。最後にメアリー一世を生んだが、男児を望む王は1533年離婚した。

やがてメアリーはエドワード6世の死後、イングランド初の女王に即位した。在位1553年7月~1558年11月。

 2人目 アン・ブーリン

1人目の侍女でスペイン出身。王は結婚を認めなかったローマカトリック教会から離脱し、イギリス国教会を設立して1533年結婚した。後のエリザベス1世を生むが、男児でなかったのを理由に王は離婚したかった。しかし応じないので1536年にロンドン塔で処刑された。

 3人目 ジェイン・シーモア

1536年、王はアン・ブーリンの侍女だった彼女と結婚。後のエドワード6世を生むが、1537年病死した。

 4人目 アン・オブ・クレーヴズ 

オランダ人。1540年結婚したが、結婚前に見た美しい肖像画と大違いだったので、6ヵ月後に離婚された。

 5人目 キャサリン・ハワード 

1540年結婚したが、恋人がいたため1542年処刑された。

 6人目 キャサリン・パー 

1543年結婚。学識が豊かだった彼女は自身も4回目の再婚となる王との結婚をしぶしぶした。1547年王が死去すると、恋人と結婚した。

写真左は、「ヘンリー8世王」と「エリザベス」 右は、6人の妻の人形。

右端は1人目の「キャサリン・オブ・アルゴン」。2人目の「アン・ブーリン」は確か後ろに居て手前と重なり、写真に撮れなかった筈だ。

      

広大な庭には城の残骸部分が残っていて、「華麗な王女たちの夢の跡」を感じた。同時に絶対権力を持つ王は、どんな屁理屈もつけられるし、堂々と妻の殺害もできたのだと再確認した。
私は子どもの頃、もし生まれ変わることがあったら、高貴な身分の家柄に生まれたいと思ったことがあったが、その後、高貴な家柄だった故に不幸になった女性も多かったのだと知ることになる。王にとってこの数人の妻たちは、人間ではなく、単に跡継ぎを生むための道具に過ぎなかったのだろう。
庭の奥に、刈り込まれた樹木で囲われた「秘密の花園」と名づけた庭園があった。つる薔薇が植えてありベンチもあった。恐らく彼女たちにとってこの庭を散策する時間は、唯一、心が癒される時間だったに違いない。

  

次にコッツウオルズの小さな村2つに行き、散策しながら静かな田園風景を味わった。

  

      



 

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英国周遊(8)

2012年06月23日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《ストラトフォード・アポン・エイヴォン観光》
昨夜はコッツウォルズの端にある風光明媚な田園の町「ストラトフォード・アポン・エイヴォン」(エイヴォン川畔のストラトフォード町の意)のホテルに泊まった。
この町が有名なのは、戯曲作家「ウイリアム・シェイクスピア」の出身地だからだ。
観光5日目も朝から終日小雨だった。
シェイクスピアはこの田舎町で1564年に裕福な皮手袋商人の家の8人兄弟姉妹の3番目の子として生まれた。父は数年後、この町の町長に選出されるが、父に闇取引疑惑が発覚して辞任し、家は没落する。
彼はロンドンに出て『オセロ』『ロミオとジュリエット』『ハムレット』『マクベス』『ベニスの商人』『リチャード三世』『リア王』などの多くの名作を書く。晩年はこの生家に戻ったが、49歳で亡くなったのだった。

町の中心の賑やかな通りに面して建っている大きなシェイクスピアの生家はすでにかなり古びていたが、周辺に残っている中世の町並みと調和しながら、「シェイクスピア、バースプレイス、トラスト」の保護管理の下で公開されていた。
内部は撮影禁止だったが、彼が生まれた2階の広い寝室では、ゆりかごに人形の赤ちゃんが入っていてそれらしく公開されていた。また、家の裏には結構広い庭があり、良く整備されていた。

  

もうひとつの観光場所は、「アン・ハサウエイ」の実家だ。彼女はシェイクスピアが18歳で結婚した8歳年上の女性で、その実家と庭が保存されていた。屋根の形が独特で、18世紀までは農家が使用していたというが、良く保存されていた。

  

ガイドと町を散策してから自由時間が少しあったので、町外れの「シェイクスピア劇場」まで行ってみた。
写真左は、「ホテル・シェイクスピア」。こんな木組みの古い家が沢山保存されていた。

  

昼食は16世紀に建てられた元荘園領主の屋敷「マナーハウス」だったというホテルのレストランの『アフターヌーンティー』だった。写真は4人分だが、お変わり自由な紅茶とサンドイッチ、ケーキだけだ。サンドイッチが絶妙の味だった。
建物の外観は本当に古いが、無機質な石の壁に生きている木や花が添えられるとたちまち雰囲気が和らぎ、眺める人の気持ちも安らぐ。また、それを狙った住人の気持ちも伝わる感じがした。

  

                

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英国周遊(7)

2012年06月22日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《世界遺産、リバプール観光》
観光4日目も雨の中、湖水地方のホテルを出たバスはほぼ160kmを南下して、マージーサイド州の州都であるリバプールに着いた。
この町は18世紀の産業革命時には25km南のチェスター港が泥に埋まってしまったため、代わりに海上交易の中心地となって栄えた港町だ。
特に西アフリカ、西インド、香港、オーストラリア、新大陸アメリカ、ヨーロッパを結ぶ大型商船を使った太平洋の独占的な貿易の拠点港として発展した。貨物としては西アフリカから新大陸への黒人奴隷の搬送も行ったため、負の歴史も残している。

写真①「アルバートドッグ」 (昔の倉庫群後を再開発し、今は博物館、美術館、飲食店、ショップなどが入る大型複合施設になっている。マージー川沿いに建つ) ②ドッグから町を望む

 ① ②

しかし、第二次世界大戦ではドイツ軍の激しい爆撃を受けた。1940年代には綿貿易、繊維産業が衰退し、1950年代になると町は衰退したが、1961年、この町から「ビートルズ」がデビューして有名になった。
現在はイギリスの主な港湾商業都市として、また「ビートルズ」誕生の町として観光客を呼び、発展しているという。

写真③ドッグ傍の「ビートルズストア」 ④ストア内の一角 ⑤ビートルズが活動した「マシュー通り」の飾りつけ (このビートルズショップの2階の壁には、4人のメンバー一人ひとりの大きな彫刻が飾られていた)

 ③ ④

      ⑤

写真⑥狭いマシュー通りの『キャバーン・クラブ』入り口 (ビートルズがライブをしデビューした当時の店そっくりに作られている。現在ここで毎週6回のライブが行われているという) ⑦地下のステージ (階段を25段降りて行くと、太い柱が何本もあり、天井が低い地下室があった。この様な狭いステージで彼らが演奏していたのだと想像した)

 ⑦

次に1940年から40年の歳月をかけて建設されたイギリス第一の大きさを誇るネオ・ゴシック様式の「リバプール大聖堂」に行った。入り口に近い場所では、ボランティアの女性たちが手作り作品の展示販売をしていた。また、子どもに絵を画かせている所だった。

  

リバプールの中華街にあるレストランで昼食を取った後、「アイアンブリッジ峡谷」に向かった。
この村はセバーン川沿いにある静かな村だったが、1986年、『コールブルックデール橋』が世界初の鋼鉄製の橋として世界遺産に指定されてから観光地になった。
18世紀、この村で製鉄業をしていた「エイブラハム・ダービー」は、コークスを用いて鉄を精錬する技術を完成させた。その技術で1781年、今も残る立派な鋼鉄製の橋が作られたのだ。

雨が降りしきる中、橋まで往復20分程歩いたが、産業革命時代を表す貴重な美しいデザインの橋だった。
その途中、道路傍の巣の中で抱卵していた白鳥がいたので驚いた。

 ⑧ 

         ⑨

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英国周遊(6)

2012年06月21日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《湖水地方の風景と庭ー②》
観光3日目は朝から雨。雨で霞む湖水地方の景色の中を、終日、観光した。
まず向かったのは、湖水地方最大の湖『ウィンダミア湖の遊覧船』乗り場だ。

遊覧船に乗って、湖から周辺の景色を見た。白鳥、鴨などの鳥が羽を休めていた。ひょっとして我が家の上空を渡る鳥も居るのではないかと思った。

  

その次に観光用の蒸気機関車が走っている蒸気鉄道駅に行き、終点までの2駅を乗った。終点の駅のホーム横斜面に、紫色の「ジギタリス」と白い「石楠花」が沢山咲いていた。
   

   

次に向かったのは「ニア・ソーリー村」にある『ピーターラビット』の作者、「ビアトリス・ポター」が住んでいた家、『ヒルトップ』の観光だった。
今は「ナショナルトラスト」が管理していると言うが、庭にはジギタリス、エニシダ、アキレギア、アルケミラ・モリスなどの宿根草でボーダーガーデンが作ってあり、藤の木が植えてあった。
かなり古い2階建ての家の室内は、ポターが好んだ絵や食器、小物などで飾られていた。
家の横にちょっとした面積の畑もあり男性が作業をしていたが、見ると土壌は石だらけなので、こんなところで上手く収穫ができるのだろうか、ジャガイモも植えてあるがどれ程の収穫があるのだろうかと気がかりだった。


(かっては食糧調達さえままならなかったこの国が、植民地を求めて大航海をした理由が少し分かった気がした。

しかしそのために今は、旧植民地の人たちの移住を認めざるを得ず、多民族国家になって様々な問題も抱えているのである)
前にも書いたが、私が調べたところ、イギリスは岩が多い土地のためにGDP の中に占める農産物の生産量は2%を下回っているという。
(日本は1%を切ったとも言われる反面で、国連食糧農業機構FAOの統計では日本の農業生産高は世界5位だという。~1位中国、2位アメリカ、3位インド、4位ブラジル、6位フランス、7位ドイツ…19位イギリス)
イギリスでは、野菜や果物はフランスやイタリアなどから輸入するために高価なので、(といっても、ロンドンのスーパーで見たところ、それらの現在の価格は日本とほぼ同じだった) 今はどうか分からないが、少し前まではイギリス人は毎日、総合ビタミン剤を飲んでいると聞いていた。
一方、そんな不利な土地の改良を進めた結果、現在はイギリスの畑を耕地面積順に多い方から並べると、小麦、大麦、その他、菜種、芋、甜菜となっているが、今でも畑として利用している土地と牧草地、羊、牛、豚、馬の放牧地は、ほぼ1/3ずつの面積になるらしい。


入り口にみやげ物店があったので、私はそこでピーターラビットのガラス用シートとイングリッシュガーデンの写真が美しい来年用のカレンダーを求めた。

  

     

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英国周遊(5)

2012年06月20日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《湖水地方の風景と庭ー①》
バスはさらに南下し、湖水地方と呼ばれる「カンブリア州」に入ると、車窓に羊が草を食む光景が続き、眺めて楽しんだ。
この州には16もの大きい湖と無数の小さな湖があるので『湖水地方』と呼ばれ、全体が国立公園に指定されている。多くの湖は氷河の侵食によってできたものである。
ガイドによると、イギリスでは標高330~977mの低山が多いが、900m以上の5山全てがカンブリア州にあるので、この州は起伏に富んだ美しい光景を作っていて、画家【ターナー」が画いた風景画で広く知られるようになったという。
また絵本作家「ビアトリクス・ポター」は1902年に『ピーターラビット』を出版して、湖水地方の自然を世界中に紹介した。
この地方は自然保護運動により長距離の鉄道網が敷かれていない。昔ながらの木々の中の細い道を、大型バスが木の枝を引っ掛けながらやっと通り抜ける感じで進んでいった。

途中でグラスミアという村で、自然派詩人「ワーズワース」が1799~1808年に暮らしたという家と彼が手掛けたという起伏に富んだ広大な『ライダルマウントの庭園』に行き、庭を散策した。
生い茂る草の中に濃い赤紫色のジギタリスや紫色のデルフィニュームが咲いていた。大木に育ったピンク色の石楠花がシンボルツリーとなっていた。まさに自然庭園の様相だった。今は「ナショナルトラスト」の団体が管理しているという。

  

さらにワーズワースが愛したという小川が流れる「グラスミア」村に立ち寄った。ここでもつつじや石楠花、宿根草が多く植えられ、それらの草花が石作りの家を魅力的に引き立てていた。

  

  

その日のホテルは、湖畔に達する広い庭園があり、高い巨木に囲まれた古風な佇まいのホテルだった。翌朝湖まで散策すると、そこには薔薇、石楠花が美しく咲き、リス、孔雀、野鳥が遊び、羊が放牧されている大自然があった。

   

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英国周遊(4)

2012年06月19日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《ローマ軍が1890年前に築城した長城》
翌朝はホテルを出てエジンバラから南下し、イングランドとの国境線近くの町、カーライルにあるローマ帝国の国境線・世界遺産『ハドリアヌスの長城』を観光した。
西暦122~126年頃イングランドまで支配を広げていたハドリアヌス帝のローマ軍が、北方からの侵略を防ぐために築いた石の長城である。当時は高さ5m、幅3mの長城が築かれ、1.5km毎に砦、兵舎、穀物倉庫が作られていたという。病院も20箇所あったそうだ。
その一部に登って来たが、今は高さがかなり低くなっていた。ガイドブックによると近隣の家作りに長城の石が使われたためだという。
直ぐ横に散策路が設けられていた。ガイドは、「イギリス人は歩くのがとても好きな人たちで、雨の日でも多くの人が何キロメートルも歩くのですよ。」と話していた。
また真っ直ぐな道路が続く所でガイドが、「この道路はローマ軍が作ったものです。」と話していた。私は1890年前のローマの北限の支配に思いを馳せた。

   

     

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英国周遊(3)

2012年06月17日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《エジンバラ市内観光》
1995年に世界遺産に指定されたエジンバラを象徴する建造物は、岩山に建つ「エジンバラ城」である。都市名の『エジンバラ』とは、「斜面に建つ要塞」という意味だそうだ。
その名の通り6世紀に生まれたスコットランドの要塞都市だが、1707年にイングランドに統合される迄は何度もイングランドとの抗争に明け暮れ、その度に城の麓の町は破壊と再建を繰り返したという。この地域の『オールドタウン』と18世紀以降に整然と作られた『ニュータウン』の対比、歴史的価値が世界遺産になった理由である。

2日目朝ホテルを出て、最初にバスでイギリス王室のスコットランドの公邸『ホリールード宮殿』に向かった。
元々この建物は、1128年スコットランド王デビット一世が建てた寺院だったが、15世紀からスコットランド国王夫妻の住居として使われるようになり、現在はエリザベス女王が夏に滞在する宮殿となっている。16世紀のスコットランド女王メアリーが諸侯の反発を買い、幽閉された宮殿でもある。
女王滞在中以外は一般に公開されているが、私たちは門の外から宮殿を見て写真を撮り、みやげ物の売り場を見ただけだった。
エジンバラ城からこの城までの石畳の道が『ロイヤルマイル』だが、その終点の写真も撮った。

  

次にバスで『エジンバラ城』に向かった。
駐車場でバスを下り古い石畳の道を登って行くと広場があり、そこで現在『ミリタリー・タトゥー』(スコットランド軍の音楽隊の行進から始まったものだが、現在は世界中のパホーマーが集まって毎日日替わりのパフォーマンスが3週間楽しめるという)の大観客席を作っている最中だった。
広場の向こうに立派な城門があった。城内に入ると右手眼下に北海につながるフォース湾が見え、その方向に向いた砲台に大砲が備えられていた。

   

石畳の道はかなり傾斜しているところもあり、上り下りに注意を要した。
城内に現在残る幾つかの建物の内、最古の物はスコットランド王が母親を称えて12世紀に建てた『聖マーガレット礼拝堂』だった。ステンドグラスが象徴的だった。
他の建物の大半は19世紀に再建されたというが、現在は『スコッチウイスキー・ヘリテージセンター』『戦争記念館』として使われている建物もあり、城内は各国の観光客でごった返していた。

  


次に向かったのはエジンバラ最大の『聖ジャイルズ大聖堂』の近くに行った。854年に建てられ、12世紀に再建された聖堂で、王冠の様な尖塔が特徴的だった。

 

2時間の自由時間があったので、ホテルから程近い『国立スコットランド美術館』に行った。
レンブラントの『自画像』、レオナルド・ダ・ビンチの宗教画、ラファエロの『母子像』、地元出身画家ターナーの風景画など初めて見た作品に感動した。この地方出身画家の作品も多く展示されていて見ごたえがあった。
その後、石段を登って坂の上の旧市街に出、『スコットランド博物館』を見学した。大きなジェームズ・ワトソンの石膏像が展示されていたが、スコットランドは科学技術国として知られた所だったのだ。石段の途中から見た公園では満開のつつじが美しかった。

 

エジンバラ市内観光は、スコットランドの歴史と文化に触れた有意義な一日になった。

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英国周遊(2)

2012年06月16日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《エジンバラ到着雑感》
3日、成田空港を10;55発のブリティッシュ・エアラインで出発してから12時間15分かけてロンドンのヒースロー国際空港に着いたが、ロンドンはまだ15;10だった。時差がー8時間(本当はー9時間だが、3月最終日曜から10月最終日曜まではサマータイムを取り入れていて時刻を1時間早めている)あるのでこうなるのだ。
私たちはそのままロンドンから18;25発の国内線に乗り継ぎ、北のエジンバラ空港には1時間後の19;25に着いた

エジンバラは北緯56度に位置し、樺太の中部と同じ位置なので6月のこの時期は日没時刻が遅いのだ。20;30頃はまだ青空、21;10過ぎてようやく薄暗くなり、地球の北側に来たという実感が湧いた。
因みに1年で昼の時間が最も長くなる夏至(6月21日)には、場所にもよるがイギリスでは4;40過ぎに日の出を迎え、21;15過ぎにならないと日没にならないのだ。多分22時近くになっても、夜空はまだうっすらと明るいのだろう。ほぼ球形で、若干地軸が傾いている地球の妙技なのだ。
しかし、いつまでも明るいと、人々は働き過ぎたり遊びすぎたりして疲れてしまう。そうならないように緯度の高い国に住む人々は、各自で生活管理をする必要があるのだと思う。
反対に12月の冬至では、日の出は8時過ぎで、日没は15時半前後となるようだ。

21時過ぎに通ったエジンバラ郊外では、所々で広い菜の花畑が真黄色に輝いていた。
街に着くと、歴史を感じさせる重厚な石作りの建物が出向かえてくれた。
バスの中で現地ガイドから、「屋内は全て禁煙なので注意して欲しい。違反すると高額な罰金を科せられる。」と注意された。

またイギリスの通貨パウンドについて、特に種類が多いコインの見分け方を習った。

  


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英国周遊(1)

2012年06月15日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

12日に無事イギリス10日間の旅から帰宅した。
翌朝からは庭の草取り、水やり、野菜の間引きなどに精を出し、ようやく気持ちも落ち着いたので、これから少しずつ旅行記を書きたい。

《観光の印象》
英国の正式な国名は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国であり、イングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドの4つのエリアが連合した王国なのだ。
今回の10日間の周遊では、旧スコットランドの首都だったエジンバラを振り出しに、イングランド北部から中部、南部へとバスで移動し、世界遺産を観光してロンドンから帰国した。時差は夏時間で、日本のー8時間だった。

 

6~10月の英国の降水量は東京の3倍(9月は4倍)なので、8日間いた内の6日間もが小雨模様で、北海道の5月の様に気温も低く寒かった。
しかし、暖流のメキシコ湾流の影響を受けるため北緯50~60度にあるにもかかわらず気温が零下になることは無いらしく、すでに石楠花や薔薇などの花が咲き誇っていた。
また年間の最高気温は、北のエジンバラでは18度、南のロンドンでは20度ちょっとであるという。

地質では、車窓から見た所、表土が薄く、スレート様の岩石が多い地質のため、農業に適す土地は限られているようだった。そのためか牧草地が多く、石を積み上げて境界を作り、その中で、羊、牛、豚を放牧する牧歌的な光景が何処までも続き、まるでニュージーランドを思わせる景観に驚いた。
さらに地震がほとんどない国という事で、古い民家や建造物の大半は土中から産出するこの石を積み上げて作ったものだった。

  

              

今年はエリザベス女王が1952年に即位してから60周年に当たる。丁度、ダイヤモンドジュビリーの4日間の祝賀行事とぶつかり、どこに行っても祝賀ムードがあふれていた。学校は休日だったらしい。
また、ロンドンが今年の第30回夏季オリンピック(7月27日~8月12日)の開催地でもあるため、全体として明るい雰囲気に包まれた様子だった。


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《5》 イギリス

2007年02月23日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

イギリスでは、まず「大英博物館」を見学。収蔵された世界中の貴重な歴史的展示品に圧倒されました。
そこには大航海時代から抱えた多くの植民地などから、強権的に収集した貴重な文化遺産が詰まっていました。ギリシャが返還を要求しているパルテノン神殿のレリーフも一隅を飾っていました。
 
訪問当時のイギリスの経済状況は決して芳しくなかったのですが、ガイドの説明で、かってイギリスの植民地だった国々から多くの難民を受け入れなければならないのも原因の一つだと知りました。
日本は難民の受け入れに厳しい国として知られていますが、今後、外国労働者の受け入れなど、どうして行くべきなのかが課題だと思いました。
 
ロンドンでは、同じ町から参加した女性と二人で、ロンドン郊外の「母子家庭」に1泊だけホームスティをして、イギリスの庶民の暮らしを体験できた事も大きな収穫でした。
食事は昼食(場合によってはブランチ)がメインで、夕食は簡単に済ませるのです。
行った日に最初に出された夕食は、「コーン入りマッシュポテト」一皿と「オレンジジュース」1杯だけでした。正直、夕食としては貧弱すぎるとびっくりしました。
翌朝は「パン」と「スクランブルエッグ」「紅茶」でした。昼は「チキンソテー」と「ポテトサラダ」「コーヒー」だったと記憶しています。やっぱり昼食が一番、品数もボリュームもありました。

11月下旬のロンドンは気温も低く、寒くなって来ていましたが、その家の居間に置かれた電気ストーブに火はなく、赤い炎の絵が張ってあるだけでした。
 母親は、その夜、二人の小学生の娘を階段下の狭い場所に寝かせ、娘達のベットを私達に貸してくれました。
 
はお土産用に日本から、折り紙と簡単な折り紙の本を持参して行って、二人の子どもに教えました。見ていた母親から「子どもは折り紙をどこで習うのか」と聞かれたので、「親や学校などで習う」と答えると、「父親もできるのか」と言います。それで「日本人なら誰でも鶴位は作る事ができます」と答えたら、「日本人は箸を使ったり、折り紙をするので頭が良くなるのですね」と言われ、的を射ていると思いました。
 
『ボランティア』を世界で初めて提唱し、国の政策にも取り入れさせた博士から講義を受けました。
日本にも来たことがある博士は、その時、私達に「新潟沖地震の時、地震の中で日本人が真っ先に考えた事は何ですか」と聞きました。「自分の命を守るために逃げる事だけですか」「他の人の事は考えないのですか」と、私達は厳しく問われました。
 
「阪神淡路大震災」以降、日本でも「ボランティア」の存在が関心を集めていますが、イギリスでは既に博士の提唱で、公務員は政策作りのために実際にホームレスを体験したり、学校や病院、各種の社会施設、公園、駅などで、多くのボランティアが活動していたのです。また、アフリカ諸国でも大勢のイギリスの若者がボランティアとして行き、活動していると聞きました。
「ボランティア」とは「自ら進んでする行為」なのですが、イギリスでは、それに打ち込む人には全くの無償という事ではなく、生活費と住居を提供する事が多いと知りました。だから半年~数年間、仕事を休んでボランティアする人も大勢いるのだと思いました。
 
ロンドン郊外の小学校を視察した日、日本人を含めた何人かの母親達が、授業の助手のような立場で「ボランティア」として来ていました。放課後のクラブ活動的な事にも参加するそうです。
 
なお、小学校の授業の様子ですが、子ども達は自分で作った時間割に沿って勉強をします。先生は「勉強」を教えるのではなく、「勉強の仕方」を教えるだけなのです。だから教室では、一人一人が違うことを実に静かに勉強していましたし、先生はこどもから何か聞かれると、それに答えていました。ある子は算数、ある子は国語、ある子は絵を画くという具合です。

教室の後ろには勉強に必要な各種の図書類も置いてあり、何か調べていた子どももいました。
私の知っている日本の子どもと違い、全く静かに物事に集中している姿を初めて見て、私は子どもの別な姿をそこで再発見した思いでした。
 
また、その小学校の場合は、午前の部と午後の部の二部制になっていて、別な子ども達が昼からやってくるのだと言っていました。  
低学年の教室の人数はわずか十数人でしたので、当時の日本の大人数の教室とはまるで比べ物になりません。

階層的に貧しい親達が多いというその学校では、黒人、アジア人、欧米人など、色々な人種と思われるこども達がいて、イギリスが多民族国家だということを示していました。
短時間でしたが、この公立小学校訪問で、私は貴重な体験をする事ができました。
 
また、ロンドン市内の交差点にある「信号機」が、その頃の日本の物と比べ、珍しかったです。
日本では当時まだ、「信号機」と言えば3色のものだけでしたが、「ロンドン」では「3色の信号」の下に歩行者用信号機が縦型に付いていて、止まれは×印が赤く点灯し、進めは人が歩く絵が明るく光って浮き出る仕掛けでした。 これだと色弱者でも絵や形のライトで正確に見分ける事ができ、とても良いと思いました。
日本でも最近は、多様な生活場所や用具に、障害のある人にも使いやすい「ユニバーサルデザイン」が普及して来ましたが、その先駆けだったと思います。さすが、ゆりかごから墓場までの伝統を持ったお国柄でした。
 

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《2》 ポルトガル・スペイン

2007年02月23日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国
 初めての外国旅行で異文化の体験に大きな魅力を感じた私は、続いてスペイン、ポルトガルに行きました。

 1月になって直ぐ、ツアーでポルトガルとスペインへ旅行しました。
 ポルトガルでは、かっての大航海時代の名残を発見のモニュメントなどで目にしました。「カステラ」はポルトガル人によって日本に伝えられた菓子ですが、天ぷらの屋台があり、「テンプラ」がポルトガル語である事を知りました。
 また、今も残されている巨大な水道橋には驚きました。

 当時、日本政府は、退職後の熟年者にポルトガルへの移住を勧めていました。物価は安く気候も良いのですが、実際には言葉の壁があって、移住して来た日本人達の定住には困難があるとガイドに聞かされました。
 私は、完全に移住するのではなく、日本の住まいを残したままで好きな国に一定期間滞在して生活し、観光する。日本に帰りたくなった時は、いつでも帰れるようにする方法の方が、無理なく老後を楽しめると思いました。

 スペインでは、広大な大地に続くオリーブ畑とコルクの木、ひまわり畑を見ました。何処へ行ってもオリーブ油で料理した独特な臭いのある料理が出ましたが、腸の弱い私は、たちまち体調を崩してしまい、パンと水しか食べられない辛い毎日が続きました。

 名物料理の平鍋を使って魚介類と共に米を炊き込むパエリヤは、米の加熱が不十分ないわゆるめっこ飯で、お世辞にも美味しいとは言えませんでした。
 ガイドに聞くと、スペインでは米を硬めに炊いたご飯が好まれ、パエリヤは沸騰後15分位しか加熱しないと知りました。(帰国後調べた日本の料理の本にも、加熱時間は15分と書いてありました)
 私達が炊くご飯は、沸騰後20分間、100度を保って米を加熱し、消火後も10分近く蓋をしたまま蒸らすので、ふっくらと芯のないご飯になるのです。こんな訳で、楽しみにしていた本場のパエリヤにはがっかりしました。
 後日、ガイドからお土産用にパエリヤの色づけに使うサフランの花芯が紹介されました。心臓を強くする効能もありますが、とても高価なものでした。
 
 バスでセビリヤの町を通った時の事です。スペインでは、キリストの誕生が、新年になって数日後に到着した黒人使節によって知らされたとして、この時期にクリスマスが行われていました。
 協会の近くの道路には人が溢れ、それぞれが食べたアイスクリームや菓子などの袋が道路にどんどん捨てられて、本当にひどい状態なのです。私は見たことのない様なゴミが溢れた町に唖然としましたが、良くした物で、ゴミ収集車が来るなりゴミを吸い取って行き、短時間に町はすっかり綺麗になったのです。この時、ゴミを捨てる人と掃除する人を見て考えさせられました。

バルセロナでは、まず聖家族教会を見学しました。この時も一つの塔の狭い階段を最上部まで上り、小さな窓から向かい側の塔やバルセロナの町を眺めました。
 翌日の自由行動では、迷うことなく真っ先にピカソ美術館に行きました。外観からはそれとは分からない様な住宅街にありました。
 ここにはピカソの青年期からの作品が製作時代順に並べられていて、ピカソも最初は普通の絵を描いていたのだと再認識しました。やがて青の時代といわれる青い絵の具を多用する絵へと変わり、それからキュービズムへと画風が変化していく様子が良く分かりました。
 その後、マドリッドのプラド美術館の別館で、有名なピカソの「ゲルニカ」を見ることができました。壁一面に描かれた大きなその絵は、絵を良く思わないドイツの人達から破壊されない様に、防弾ガラスで覆われているのだと説明を受けました。
 そこを出ると美術館の前でゲルニカのキーホルダーを売っていました。かなり重い金属製でしたが、3個1000円でお土産に買い求めました。

 
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