7日目の朝は、最後の見学場所である世界遺産「麗江古城」に行った。
この古城の町は、宋の時代に作られ、チベットの馬と雲南・四川の茶の葉を交換する茶葉街道の拠点として賑わったらしい。
古城の入り口には大きな水車が回っていて、壁にはナシ族の歴史を示すモニュメントが作られていた。
門を入ると石畳の狭い通路や階段、幾つかの水路に沿って建てられた木造2階建ての白壁、瓦屋根の家々、広場など、その独特な雰囲気に昔懐かしい感じが湧いた。
どの屋根の四方にも角の様な飾りがついているが、聞くと鳳凰の羽根を表わしているのだという。
石段を登って展望台に行き写真を撮った。
玉龍雪山がバックにある素敵な写真がガイドブックに載っているが、その日は残念ながら山は見えなかった。
更に上へ登ると高さ33mもあるという「万古楼(ばんころう)」が聳えていた。僧侶が一人、読経をしていた。
この町の小さな店で、私はトンパ文字の入ったTシャツとストールを買った。
所で、数日前の朝日新聞に、「麗江古城では、世界遺産に指定されてから古い建物の保存が義務づけられ、家賃も上がった。すると次第に昔からのナシ族は古城の外へ出て行き、観光客目当てに商売をするその他の人たちが住み着くようになった」と書かれていた。世界遺産の明暗なのかも知れない。
長くなったが、これで今回の雲南省の旅日記は添えた64枚の写真と共に終わる事になる。
中国3回目の旅となった今回が、気候も良く、内容も1番変化に富んでいて、食事も美味しかった。
何よりも今まで知らなかった少数民族の人たちの暮らしぶりを、少なからず知ることもできた。
それと漢字がどんどん簡略化されている事も知った。
「云南」は「雲南」の事だったし本来の「麗江」の麗という字は、下の鹿が無くなっていた。「国際」の際は卩の右に示のみだ。「衛」はギョウニンベンの右にエとだけ書く。極めつけは「業」が上の冠部分だけなので、初めは北の字の略かと思った。
本当に多くの漢字がすっかり簡略化されて、意味不明の字に変えられていた。こうなるともう1字1字が意味を示す漢字ではない。
やがて本来の漢字を理解できるのは、私達日本人だけになるかも知れないと思った。
また、細切れにガイドが話してくれた話も興味深かった。
その幾つかを書くと、今まで農民は、身分証にもパスポートにも身分が書かれていたが、近々全部が「居民」と言われるようになって身分差別が無くなるという。
また政府は、農民の農業税を無くしたり、TVや洗濯機を買う場合に国が半分補助をするようになったのだという。
昨年からは地方の道路も改修し出したらしい。
今、行われている全国人民代表者会議では、地方の内需拡大が課題の一つになっていると日本でも報じられている。
3月7日のNHKTVでは、今中国では社会保障制度が後回しされているため、教育と医療を受けるのにお金がかかる。北京の公務員の平均月収は2000元(日本円で約2.8万円)だが、その内の48%(現在の日本の2倍)が将来のために貯蓄にまわされているとも報じられていた。かっての日本も生活の不安から貯蓄率が高かった。今は貯蓄したくてもできない家庭が増えているという。
(平均収入からすると、日本の100円の価値は中国では1000円以上になると思う。だから中国で日本円に換算して500円の品物は、実は5000円の価値なのだと私は思っている。田舎ではもっと差が開く)
しかし、ガイドの話では、世界的な不況を受けて、大学を出た学生は1/3しか就職できなかったり、出産後1年休んでも給料を払わなければならない女性の雇用を個人企業が嫌ったりする状況が強まっているという。
また、「国営企業は、重労働で残業代も払わない事がふえたので資本主義的経営をし出しているが、それに対して日本の企業は、残業代をきっちり払うので社会主義的経営だと言える。」などと、面白い比喩を話していた。
しかし、情報を早く知りえる立場の公務員は、うまく立ち回って多額の賄賂などで潤い、公務員と一般の人との収入格差はすごいのだと彼は嘆いていた。一般人の不満も鬱積しているのかも知れない。
バスの車窓からは、桜などの苗木を育てる農園が幾つか見られた。植樹した場所もあった。
世界で最大の人口を抱える多民族国家中国は、今後も少しづつ変わって行くだろう。私たちにとって近くて遠い国の変化を、何時かまた見に行きたいと思いながら今回の旅を終えた。
翌日の午前中は麗江郊外の観光だった。
山間の道を西へ50km下った所に長江が180度迂回する場所があり、そこに古くからチベット族との交易の中継地として発展した町がある。
町の名は石鼓鎮。町の入り口に狛犬?が4匹も鎮座する立派な門が立っていた。
高台に上がると古い町並みや木造つり橋の傍で編み物をしている女性達がいた。
少し道を戻り、バスは虎跳峡(こちょうきょう)の入り口に停まった。
高低差3000mの大渓谷の下を20kmに渡って流れる長江(金沙江)沿いに、2.5kmの遊歩道が作られていて、終点が展望台になっていた。展望台の下は虎が飛び越えたと伝えられている程、川幅が特に狭くなっている所で、豊かな水量が激流と化していて壮観だった。
川の向こう側は、チベット族が住むシャングリラ(香格里拉)地域だ。そこにも小さな何人もの人影が見えた。
往復1時間半、渓谷美を楽しみながら一生懸命歩いたため、戻った時には汗をかいていた。
バス停の近くにレストランがあり、そこで昼食をとった。私たちを目当てに数人の物売りが来たが、どこから仕入れたのか、お年寄りの女性から買った蜜柑は新鮮で香りが良く、すごく甘かった。
その日の夕食は、麗江古城に近い飲食店街でナシ族の民族料理を味わった。
沢山の野菜と豚のばら肉、ソーセージ、麺、ご飯、春雨の火鍋料理だった。ニンニク、ごま油、魚醤などで作ってあると思われるたれが独特で、体も温まって美味しかった。
食事後トイレに行った。女性用の扉を開けてびっくり。清潔な水洗トイレだったが究極の「ニーハオトイレ」だったので、私は使うのを止めた。
その夜8時頃、友人とホテルの近くのアーケード街に行き、色々な果物を買い込んだ。特にレイシー、金柑が新鮮で安く、美味しかった。
見たことの無い豆を買って来て食べて見た。黒く硬い種の周りに干し柿のような実がついていた。帰りの空港で袋入りで売られていたが、名前を見てこなかった事を反省している。ネットで調べたがまだ分からない。
とても珍しい豆なので種を蒔いて見ようと思っている。
山から戻り、晴天なら池に逆さに玉龍雪山を写す「玉泉公園」に行ったが、残念ながら山は望めなかった。しかし、観光客と市民で賑わっていた。
長江(麗江)のシャングリラ(香格里拉)地域から旅行に来たのだろうと思われるチベット族の女性達が数人、民族服で着飾って来ていたので、撮影させて貰った。全員、すらりと背がとても高かった。
ナシ族の楽隊が伝統的な楽器で演奏していた。
麗江の女性ガイドの説明では、ナシ族には母系社会の風習がが残り、男性は働かずに昼間は将棋や麻雀をして過ごすことが多いという。昔、男性は勉強する人が多かったためだそうだ。しかし、今は女性も勉強するのに、この風習は続いているらしい。また、家の中に暖房が無いので、冬でも太陽の当たる外で過ごす人が多いそうだ。
中学生らしい女生徒が、制服のジャージー姿でベンチにかけていた。(昆明でも、ジャージーで登校する子ども達を見かけた)
梅が咲き誇る寺が綺麗だった。
公園の奥に行くと、「トンパ(東巴)文化博物館」の入り口に繋がっていたので、私たちは改めて見学し直した。
入り口に「ユネスコ世界記憶遺産」に指定されているナシ族の象形文字(トンパ文字)が掲げられていた。
ナシ族が信仰するトンパ教は、太陽、月、星、山、水などの自然物を崇拝し、万物に霊魂が宿ると信じる。
また、明の時代に繁栄し、王朝から「木」という姓を与えられたため、町を囲む城壁を作ると「困」となるので作らなかったため、商業が発展したという。
博物館の日本語ガイドは、「先祖が残してくれた文字のお陰で、今の私たちが生きて行ける。」と繰り返した。
今では文字の多くが人々に忘れ去られ、現在いる継承者は極僅かだと言う。
博物館の奥に行くと、文字の継承者中第一人者というトンパ先生が、手漉きのトンパ紙にトンパ文字を書いていた。
「家内安全、幸福祈願」「安産祈願」などと筆で書き、販売していた。
私は売店で記念の絵葉書を買った。仲間の一人が買ったトンパ文字のトランプも良かった。
(その翌日私は、トンパ文字で「昨日は幸せ、今日も幸せ、これからも幸せ」と書かれてあるTシャツを、娘の土産に買った)
夕食後、数人で近くの食品スーパーに行って見た。いつもホテルやレストランで出される野菜やマントウ類、餃子などが冷凍食品として安く売られていたので、私は少しガッカリした。