太陽が満載だ。太陽の季節、太陽の党、そして太陽がいっぱい評。
さて、ハイスミスの太陽がいっぱいだが、あと30ページほど読み残している。このブログの書評は日記、時々メモみたいなものだから、読み終わってから書評を書けなどと言わないでほしい。
オイラが言うところの第三部はイタリア警察とのやりとり、そして例によってアメリカの探偵が出てくるが、第一部、第二部に比べて最低である。
ひどい。読むに耐えないと言ってもいいだろう。もっとも映画は全くと言っていいほど筋を変えているらしい。確かにこれでは映画に向かないというだけでなく、話にもなるまい。「見知らぬ乗客」の第三部はフォト(シネ)ジェニックではないし、切れもない妙なものだったが、一応それも一考というものであった。がこの「太陽がいっぱい」の第三部は違う。
叙述が混乱している。会話がだれが言っているのか分からない。分からないというより、その人物とすると前からの話とつながらない。これは意図的なのかな。トムが錯乱しているということにして。これは『第一部」にもいくつかあるのだが、 最後の100ページはひどい。
彼女はアガサ・クリステイなんて読んだことがないと言うが、まだ、クリステイのほうがましだ。しかも、この部分がクリステイの模倣みたいだから救いがない。
これは翻訳に問題があるのか、あるいは翻訳本の編集の過程に不備があるのかな。これだけひどいとそうではないような気がする。翻訳者に恵まれない場合、原文を読まないとよさが分からない作者がいるからね。他ではダシール・ハメット、ロス・マクドナルドなどが日本での翻訳者に恵まれない例である。
ところで、これまでにパトリシア・ハイスミスの「11の物語」、「見知らぬ乗客」と「太陽がいっぱい」を読んだが、グレアム・グリーンの評(11の物語序)に疑問だ。
第一に、そんなレベルの作家かな、ということ。
第二に、「ハメットやチャンドラーと同じジャンルの作家」というグリーンの分類には首肯できない。作家のレベルということを別にしても同じジャンルじゃないよ。