穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

バフチンのいうモノローグとは、「指バラ色に」の場合

2013-05-30 10:28:40 | 書評
バフチンの「ドストエフスキーの創作の問題」だが100ページあたりまで読んだ。

どうもモノローグという言葉の使い方がおかしいからわからなかったようだ。すこし言いたいことが分かってきた。

「作者の意識のモノローグ的で単一な世界云々」と言っているところを見ると、モノローグというのは作中人物のすべてが作者の分身であり、作者の考えを述べている、という意味らしい。こういうのをモノローグというかね。

作者の意識がすべての作中人物に反映している、とでも言うべきじゃないかな。私が混乱したのは、たとえば、バプチンによればモノローグ的でない「地下室の手記」は、私から見れば地下室の住人のモノローグからなりたっている。

つまり彼の自意識をモノローグ(演劇で言えばわきぜりふとでもいうのかな)で読者に語りかけている。

ちなみに、このブログでも紹介させていただいている拙著「指バラ色に」の主人公尼子三郎は彼の自意識をモノローグ(わきぜりふ)というかたちで読者に(演劇でいえば観客に)伝えております。

また、作者と主人公の紐帯は切り離されて自由に動いています。つまり作品は個人作成文書の類い、あるいは自分史のようなものではありません。

脇台詞は最初のほうは二重カッコにいれておりましたが、あまりにも変化がないので、自明の場合にはいろいろな表記法をとっています。以上バフチンに便乗して自著宣伝であります。

さて本題に戻りますが、トルストイのアンナ・カレーニナでヴロンスキーもアンナ・カレニーナもカレーニンもリョービンの会話もすべてトルストイの単一の意識に統一されているのでしょうか。きわめて不自然で無理な理論だと思います。

要は程度問題じゃありませんか。ドストはその度合いが、つまり各主人公の意識の独立性がつよく、同時並立しているということではないでしょうか。それなら分かる気がします。