穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ドストエフスキーのイデー丸出し

2013-08-04 13:49:54 | 書評

いよいよ、カラマーゾフの兄弟第四部も終わりにきた。ミーチャ裁判の法廷場面だ。

検事の論告があって、弁護士の弁論が続く。明らかに弁護士の弁論の方がインパクトがあるというか、文章として優れている。これは作者が意図的に操作して効果を狙っているからである。

父親の育児放棄を追求している。母親が死んでしまったから育児は父親の責任という訳だが、テテオヤの育児放棄という問題はドスト長編すべての主要テーマである。とくに、悪霊、未成年、カラマーゾフの兄弟でそうだ。

法廷での弁護士の主張はドスト年来のものである。つまり作者の声がもろに反映されている。バフチン氏には悪いが、弁論は作者の声そのものである。これ一つを取り上げてもバフチンの主張(イデーとポリフォニー)は成立しないことが分かる。

ドストのいわゆる五大長編のうち、最初の二つ、すなわち罪と罰、ならびに白痴には育児放棄の問題はない。そもそも父親はいない。罪と罰では母親しかいない。父親のことは詳しく書いていなかったと記憶するが、すでに死亡したという設定だったと思う。

白痴では父親も母親も幼児のうちに死んでいる。孤児である、つまりドストの長編は父親が物理的にいない(死んでる)か、実質的に存在しない。すなわち育児放棄をしていて青年になって初めて親子の対面がある。

五大長編すべてで同一の設定と云う一致は作品を考える上で絶対に考慮しなければいけないポイントである。

なぜこんなことを書くかというと、この点を指摘したり、掘り下げたドスト評論は皆無らしいからである。

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加えて、第四部の終章が「誤審」となっている意味を考えなければいけない。弁論で無罪はほぼ確定的と傍聴者が思っていたのに、陪審員は有罪とした。これを誤審というのだろうが、もっと深い意味があるような気がする。

そしてそれはドストが続編で構想していた「なにか」と関係があるような気がするのである。