穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

イワン・カラマーゾフのアリバイ

2013-09-23 19:46:04 | 書評

 

 さて、お待ちかねのアリバイ崩しだ。亀山郁夫訳の光文社古典文庫「カラマーゾフの兄弟」5に亀山氏の解説がある。そこに物語のダイアグラム(出来事を時系列で整理した表)がある。<o:p></o:p>

 

 なかなかの労作であるが、不審な点がいくつかある。まずこれから見ていこう。時刻は推定を含む、という注があるからいいようなものだが、本文からは推定できないから、ロシアの研究者の論文などに根拠があるのであろうか。<o:p></o:p>

 

 原文(本文翻訳)によれば、物語二日目の朝イワンは馬車で出発する。そうして(亀山ダイアグラムによれば)12時ヴォローヴィア駅に着く。これがわからない。この駅は鉄道の駅なのか。馬車用の駅(サービス・ステーション)なのかが判然としない。ここでイワンはチェルマシニャーに父の用事で行くのをやめる決心をする。そして午後7時の汽車にまにあうか、と御者に聞く。このやり取りからヴォローヴィア駅は鉄道の駅ではないことがわかる。だってダイアグラムによるとこの駅に12時についている。そして列車は午後7時の出発である。馬車で5時間もかかるところにある場所ということになる。<o:p></o:p>

 

 みつけた。本文第二巻315ページにこの駅から鉄道の駅まで80キロあると書いてある。<o:p></o:p>

 

 面白いのは鉄道の駅名が本文にないことである。馬車や馬旅行用のサービスステーションの名前が書いてあって鉄道の駅名がどことも書いていない。面白いというか妙な話だ。<o:p></o:p>

 

 もっとも上の話はアリバイ崩しとは関係ない。前後の話でおかしいところがあるのでマクラで触れたわけである。<o:p></o:p>

 

 アリバイ崩しは簡単にすむ。第二巻344ページ『汽車は走り、ようやくモスクワに入る明け方になって、彼はふと我に返った』<o:p></o:p>

 

 鉄道駅までは馬車で行ったのだから、イワンのアリバイには御者という証人がいる。鉄道に乗ってからは、ドストエフスキーの神のような視点で述べた上記の引用文しかない。<o:p></o:p>

 

 そこでだ、イワンに幻覚症の持病があった、またジキルとハイドのような人格障害があって、別人格に変化したときには前の人格の記憶は消えうせる。とすれば、イワンはいったん汽車に乗った後、しばらくしてB人格に変換、次の駅で汽車をおりて鉄道か馬車で父の家にその夜のうちに引き返した。そして父親を殺した。3千ルーブルはスメルジャコフが隠し場所で嘘をついたので見つからなかった。そしてまた鉄道駅に引き返して翌日夜の列車に乗り込んだ。そして明け方モスクワに近づいたときにA人格に戻った、すなわち『彼はふと我に返った』のである。<o:p></o:p>

 

 イワンはモスクワに戻ったというが、四日間連絡がつかなかった。父の死についてアリョーシャはイワンがいつも立ち寄るというカテリーナの姉と叔母の家に電報を打ったが、そこにイワンがあらわれたのは四日後だった。したがって、結論として、物語二日目の夜列車に乗り込んでから数日間イワンのアリバイはないのである。<o:p></o:p>

 

ちなみにスティーヴンソンの「ジキルとハイド」は1886年出版<o:p></o:p>

 

「カラマーゾフの兄弟」は1880年出版<o:p></o:p>

 


イワン・モデルのコンピューター

2013-09-23 18:41:46 | 書評

 

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 ちまちまとしたことを書いていて我ながら嫌になってしまうが、どうにも他に方法がない。結論というか、私の心象からいえば、細かいことを言わなくても当然に考えられることで、人格のモデルというか、バフチンの言葉で言えば、イデーの特殊な形態としてのイワンのモデルを最初に説明したほうがすっきりとするのかもしれない。<o:p></o:p>

 

 コンピューター・アーキテクチュアを例にして説明すれば、イワンはアカウントが二つあるPCでしかも全体を管理するアドミニストレーターがいない。CPUが二つある。DUAL CPUというのはめずらしくないが、PCの場合複数のCPUPCの処理能力をあげるためにコラボする。イワンの場合はコラボがない。IOも二つ、メモリーも2セット独立して動いている。そんな感じかな。だからAというシステムというかOSが動いているときにはBは眠っている。逆にBが目覚めているときにはAはアイドリングしている。ABはお互いに分身なのだが、独立して存在しているように見える。<o:p></o:p>

 

 文学上ドストエフスキーの独創というわけでもない。「ジキルとハイド」も同じようなものではないか。ドストの場合ABは意識レベル、哲学的な言葉でいえば表象レベルでは完全にセパレートされているが、無意識領域というのを人間に認めれば、そこでは交流があるとしたのではないか。だから人格Aと人格Bの間には心の奥底でおなじプールがあり葛藤がある。それがイワンの精神を破壊する。イワンが事件後幻覚を見たり、事件後突然に精神状態に異常をきたす現象はこう解釈しないとつじつまが合わないのではないか。<o:p></o:p>

 


イワン再吟味もあと二回ほどで終えたい

2013-09-23 16:59:54 | 書評

 

あと二回ほどのアップでこのシリーズを終わらせたいと思っています。今回は前回に続き、裁判前日から裁判当日までのイワンの様子をまとめておきます。

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裁判前日:<o:p></o:p>

 

●スメルジャコフをたずね三回目の会見を行う。これは前回書きましたが補足することが一つあります。スメルジャコフは「自分が文鎮でフョードルを殴って殺した」といった後で、靴下の中から三千ルーブルの札束を出します。彼の説明によるとフョードルを殺した後で金を奪い庭の木の洞に隠した。そして病院から退院した後でそこから取り出したと説明しています。彼の説明だと殺人と金の強奪はセットになっているようですが、誰かが殺人を行って去ったあとにスメルジャコフが母屋に入って金を持ち出したという説明も可能です。とくに金の隠し場所はドミートリーやイワンに説明したように枕の下にあったのではなく、本当は聖像の後ろに隠してあったとスメルジャコフはいうのである。<o:p></o:p>

 

だから、殺人犯と金を持ち出した人間とは同一人物と思わせるのはドストエフスキーの記述トリックと考えることもできる。
 
●その後、イワンは家に帰る。家で自分の分身(もちろん幻覚)がいるのを見る。イワンはほとんど錯乱状態だった。自分の分身と会話をする。医者によればひどい幻覚症状というだろう。なぜ、そのような状態になったのか。イワンの第一の人格と第二の人格は意識記憶の共有がまったくない。しかし、無意識の領域ではつながっていて心の奥底で激しい葛藤が続いており、ほとんどイワンの精神を破壊していたと説明できる。

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●そこへアリョーシャが駆けつける。「いまスメルジャコフが首を吊った」というのである。遺書というかメモがあった。『だれにも罪を着せないため、自分の意思と希望によってみずからを滅ぼす』という内容だそうだ。なにも決定的な告白をしていない。
 
●イワンは完全な昏睡状態に陥る。<o:p></o:p>

 

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裁判当日:<o:p></o:p>

 

●イワンが証人として出廷。だいぶ様子がおかしい。大変具合が悪いようだ。法廷のテーブルの上に昨日スメルジャコフから受け取った三千ルーブルの札束をおき、自分が殺人を教唆し、スメルジャコフが殺して金を奪った、と証言する。そのあと狂人のような言動をとり、廷吏に取り押さえられ昏睡状態に陥る。
 
法廷は、裁判官はイワンの証言を信用しない。<o:p></o:p>

 ●昏睡状態に陥ったイワンは連れ出されてカテーリーナ家に連れて行かれ看護を受けている。それ以上のフォローはない。「カラマーゾフの兄弟」のなかでイワンが言及されているのはこれが最後である。まもなく、小説は終わる。
こんなところかな、必要なところは。


スメルジャコフの使い方

2013-09-23 06:59:06 | 書評

 

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スメルジャコフとはどういう人間なんだということを押さえておかないと道に迷う。もっと正確に言うと作者はスメルジャコフにどういう機能を与えているのか、理解する必要がある。<o:p></o:p>

 

 スメルジャコフは殺されたフョードルの忠犬である、忠実な下男である。事実フョードルはスメルジャコフしか信頼していなかった。<o:p></o:p>

 

 彼の精神はその持病のせいか、振幅がはげしい。虚言癖、物語を勝手に作り上げる癖がある。警察にはこういう連中がよく来るそうである。何か大きな事件が報道されると、自首してきて「私がやりました」という人間がかならず現れる。話を聞くと筋道の通ったことをいう。裏付けをとると全然でたらめであるという連中がいるという。忘れたが、専門用語まであったようだ。こういう連中を表す病名のような用語もあるはずだ。<o:p></o:p>

 

ドストエフスキーは「ほのめかし」を大量散布するが、すべての「ほのめかし」が矛盾なく一定方向を示していたら、それは「ほのめかし」でもなんでもない。最後までどうともとれるように読者を迷わせるために矛盾した「ほのめかし」をばらまいていくのである。<o:p></o:p>

 

 これからは「カラマーゾフの兄弟」第四部第11編8.「スメルジャコフとの三度目の、最後の対話」を見ていく(亀山訳30ページ以降)。<o:p></o:p>

 

 その前に出発前夜イワンと交わした会話を思い出そう。彼はイワンに、ドアの秘密のノックの仕方を教えたり、当夜実質屋敷が無人になるという情報を伝えている。これはちょっとみると、犯罪の協力者が相手に貴重な情報を伝達しているように見える。しかし、第四部の「スメルジャコフとイワンの最後の会話」を読むと、むしろ彼が、この情報を伝えたらイワンが乗ってくるかどうか(犯行の意図がイワンにあるかどうか)、相手がどういう反応を示すかを探るために行ったようである。<o:p></o:p>

 

 この「最後の対話」でスメルジャコフがきわめて具体的にフョードルを文鎮で殴り殺したことを「告白」するところがある。これを額面通りに読者が受け取ればドストエフスキーはほくそ笑むであろう。第一、そこは法廷でもなければ、予審などの司法手続きの一環でもない。イワンとスメルジャコフ二人だけの会話である。<o:p></o:p>

 

 イワンが明日法廷に一緒に行って証言しようというと、言下にスメルジャコフは証言することを拒否している。イワンを相手にちょっとひっかけてみた、という感じである。つづく<o:p></o:p>