西田幾多郎の「善の研究」とりあえず終わらせてもらいます。どこが独創的なのかよく分からないが、よく色々な本を読んでいるようだが、理屈の持って行き方はあきらかにヘーゲルの「「論理学」」がアンチョコである。
それで、ヘーゲルの「精神現象学」拾い読み。勿論初めて読む。「意識、感覚的確信 このものと思い込み」あたり。
これは思弁心理学そのものだな。もっとも当時はそれが(今でも一部では)哲学だったのだから。
それと、現代の言語分析風だね。現代というよりかスコラ風というか。
二十世紀の後半、分析哲学は中世哲学を学んでいるが、いっていることはほぼ同じだ。ようやく中世との断絶がつながりつつある。
近代哲学は中世哲学の「嫌悪」否定から始まった。といってもデカルトやスピノザはスコラ哲学の教育、雰囲気の中でそだったから、否定しようも無くスコラ臭がする。そこがいいところというか、危なっかしさのなさになる。
その後は中世を飛び越していきなりギリシャ哲学に接ぎ木するようになった。もったいないことだ。
ちょうど戦争直後の日本の左翼的知識人が教養として戦前の教育と断絶していなかったのと同じだ。それが、現代になると体でも頭でもしっかりした土台が消えてしまって、根無し草というか言うことが奇矯になる。戦後民主主義などというやからのように。
それで、ヘーゲルの「精神現象学」拾い読み。勿論初めて読む。「意識、感覚的確信 このものと思い込み」あたり。
これは思弁心理学そのものだな。もっとも当時はそれが(今でも一部では)哲学だったのだから。
それと、現代の言語分析風だね。現代というよりかスコラ風というか。
二十世紀の後半、分析哲学は中世哲学を学んでいるが、いっていることはほぼ同じだ。ようやく中世との断絶がつながりつつある。
近代哲学は中世哲学の「嫌悪」否定から始まった。といってもデカルトやスピノザはスコラ哲学の教育、雰囲気の中でそだったから、否定しようも無くスコラ臭がする。そこがいいところというか、危なっかしさのなさになる。
その後は中世を飛び越していきなりギリシャ哲学に接ぎ木するようになった。もったいないことだ。
ちょうど戦争直後の日本の左翼的知識人が教養として戦前の教育と断絶していなかったのと同じだ。それが、現代になると体でも頭でもしっかりした土台が消えてしまって、根無し草というか言うことが奇矯になる。戦後民主主義などというやからのように。