穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ヘーゲルをとらえるいくつかの枠

2014-06-21 10:04:00 | 書評
前回は彼の思想の背景には神秘体験があると述べた。

それと関連して、その他に、ドイツロマン主義や啓蒙思想(合理主義)の枠が有る。

また、カントが課した物自体不可知論の桎梏を必死で逃れようとしたドイツ観念哲学共通の特徴がある。

彼の青年時代の親友としてシェリングと詩人ヘルダーリンが有名である。シェリングには後思想的に批判的となるが。

青年時代は啓蒙思想に染まり、フランス革命に熱狂した学生時代であったらしい。彼の合理主義、理神論、ハッピーエンド思想には濃厚に痕跡を残している。

理神論は超越神を否定し、内在神的で彼岸を否定するところに至る。

カントは物自体は不可知だよ、というが青年達は到底そこまで諦観出来ない。以後の観念論はすべてなんとかカントの桎梏を逃れようと試みるあがきである。

フィヒテは主観、自我がすべてというオプション、シェリングは後期に至り宗教とか芸術で理屈なしに彼岸を知ることが出来るとしたためにヘーゲルから揶揄された。

カントの直系弟子を名乗るショーペンハウアーは「盲目的意志」なるものが物自体の正体であると遠慮がちに主張した。

E・ハルトマンはそれは「無意識」なんだよ、という具合。

ヘーゲルも物自体という分からない世界があるわけではない、というわけだ。彼の手品師みたいなロジックのラビリンスはそれをいいたいわけだ。

一番がっかりするのは、絶対精神が自己をフルに世界に開陳したあと、そこから先がないことである。ハッピーエンドのおとぎ話である。なんだか、すぐに認知症になりそうな感じである。




あいかわらず「たわごと」を読んでいます

2014-06-21 07:35:10 | 書評
つまりヘーゲル「精神現象学」の鳥羽口あたりをうろうろしている。ヘーゲルの論証につき合う必要はないが、結論にははなはだ魅力的なものがある。あきらかにラッセルの推測する様にヘーゲルは自分の神秘体験を必死になって哲学化しようとしているのだろう。

いきなり結論をだしては、宗教の教祖になってしまう。ご神託を突きつけるようなものだ。ヘーゲルも哲学者だ。理屈をこねなければならない。しかし、これがうまくない。論証になっていない。

弁証法とか正反合などの『論理学』はこのために考えだされたものだが、独断的であまりにもアクロバティックな思考を相手に強いるものである。

これを有り難がるのは、ヘーゲルの一言一句を押し頂いて護符の様に切り売りして生活の糧を得ている「大学の哲学教師」、「講壇哲学者」である。

意識をこね回しているあたりでも面白いことを言っている。意識と対象、主体と実体とは相互交換可能で、その働きをしているのは『力』であるというのだ。19世紀の初頭にはエネルギーと質量の等価性などの考え方はなかっただろうが、この考えは(というよりはヘーゲルの直感は)アインシュタインによって公式化されたエネルギー(力)と質量の交換法則を連想させる。例の E=mc^2  である。

マルクスをメロメロにしたのはどのあたりかな。まだ出てこない。