大分前になる当該書を40ページほど読んだ感想を書いたままになっていた。それから大して読んでいないのだが一応〆てケースクローズにしておこう。
あれから3,40ページほど読んだ。どうもピンとこないので訳者あとがきを読んだ。以上がポジション・リポートである。
シュタイナー(以下s)氏はしきりにニーチェは本能を「第一原理」にしたという。そこに感服したというか意義を認めていると理解した。これがどうもしっくりとこない。何百年も前に、モトエ何十年も前に読んだニーチェであるが、記憶によると「本能」という言葉がそれほど記憶に残っていない、強い印象を受けなかったということである。
そこでこういうsのようなとらえ方が適切かどうか疑問である。なお、改めてニーチェをすこし読み返したわけだが、本能という言葉はかなりの頻度では使っているが、突出しているわけではない。哲学者の通弊でもちろん本能の定義とか説明は一切していない。これはsも同様である。したがって、本能は日常用語、俗語として様々な意味に使われるのと同じ意味でニーチェもsも使っていると理解した。
もともと書店の棚でこの本に目が行ったのは、前にも書いたが「オカルト、スピリチュアル、精神世界」ものの大家の本を岩波文庫に入れたという意外感から好奇心で読んだわけである。それとオカルト物とニーチェがどうつながるのか、つなげているのかを知りたいという野次馬根性である。すこし読んだところではsのその後のオカルト言説との関係はまだ無いようである。
所詮これはsの34歳の時の若書きなのだろう。sが神智学の分野でのしてきたのは数年後のことだしね。
ニーチェの「本能言説」に感応して書いたということだろうが、振幅の大きい、しかも晩年には体系家たろうとしてその重圧で発狂してしまったニーチェを本能だとかオカルトだとかあの世だとか彼岸だとかアストラル体だとかの前駆者とするのは荒唐無稽である。
ニーチェはいろいろと書き散らかして行ってしまったが、彼は気の利いたシン言家*としてエッセイストとして読むべきなのだろう。つまりモンテーニュやパスカルのように。
*変換できず。推測されたし。