神保町から靖国通りを須田町まで歩くと三四郎は時々立ち寄る定食屋の引き戸を開けた。紺色の暖簾を潜って中に入ると時間が遅いからサラリーマンの客はいなくて、いつも見かける常連ばかりだ。壁を背にした椅子に腰掛けると隣のテーブルに座っていた中年の男が顔を上げた。お互いに軽くうなずいた。いかついた肩をした中年の男である。食事が終わったらしく、前には飲みさしのコーヒーカップが置いてある。何時もの様に文庫本を広げて読んでいた。
注文した焼き魚定食に箸を付けていると幼児をつれた母親が入って来た。彼らが席につくと3歳くらいの女児が急に泣き始めた。アラームの様に最初は小さな声でしくしく泣いていたがだんだんと泣き声が大きくなり店内が割れるような大声を張り上げ始めた。まるで小鳥のような声帯をもっているのか、一里四方に響き渡ろうかというわめき声である。
母親はおろおろしてなんとか黙らせようとするが、幼児は声を限りに泣きわめき続ける。なにか気に入らないことがあるのか、ひょっとすると、この店の異様な雰囲気に怯えたのだろうか。たしかにこの店は奇妙なところがある。ウェイトレスが近寄ってきて、慣れた調子で話しかけてあやそうとしたら、幼児は身を震わせてますます怯えて喚き立てた。それはウェイトレスというよりかは女給仕というほうがしっくりとくる老女で、この店は皆老女の給仕なのである。皆同じ雰囲気を漂わしていて何となく前身は水商売の女のような身のこなしなのである。どこかにそういう人たちの更生施設があって、そこから一括して派遣されて来ているのかも知れない。
途方にくれた母親は周囲の客から集中する非難するような視線に堪え兼ねて注文もせずに席を立とうとしたときである。文庫本を読んでいた男がつと立ち上がると女児の側に行き何か話しかけた。そして手で幼児の首筋から背中当たりを撫で出した。幼児はびっくりして一瞬泣き止んだが、それもつかの間また前よりいっそう激しく喚き始めた。それでも男はなにか幼児に呪文のようなものを呟きながら背中から首の後ろを指で軽く押している。しばらくすると嘘の様に幼女は泣き止んでしまって、きょとんとした顔で男を見上げている。かれは母親にもう無大丈夫ですよ、と笑顔で言うと自分の席に戻り眼鏡をかけ直すと読みさしの文庫本を開いた。