穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カミユ「転落」のモデルはサルトル

2017-04-15 08:45:12 | カミユ

主人公であり語り手であるクラマンスはカミユである、といわれているそうだ。つまりカミユの自伝的小説であると。わたしはクラマンスのモデルはサルトルであると見る。彼が転落の前に弁護士として寡婦と孤児の輝かしい守り手としての半生を語るのはまさにサルトルの左翼革命陣営の旗手としての世間的評価であり、サルトル自身が僭称するところである。

断っておくが、これは37ページまで読んだところでの感想である。解説者の言う所とは大きく解離することを申し上げておく。

文章の片言隻句にサルトルの文章への当てこすりがある。対象となるのは、「革命か反抗か」のサルトルの文章である。また予言的では有るが、8年後サルトルがノーベル文学賞を拒否したときの弁明に酷似したクラマンスの言辞がある。カミユはサルトルならこう言うだろうということを8年前に推測していたことになる。

「あの晩」を境としてクラマンスことサルトルはカミユと同じ地底に転落する、あるいはカミユの高みにまで登ってくる、というのが筋書きらしい。これはカミユの希望だったのか。呪詛だったのかもしれない。実際にはサルトルは終生自らを高しとする態度に終始したらしいが。つまりこの小説は自分とサルトルの人生、哲学を対比的に描いたものであろう。

出版は1956年の5月という。この年の10月にカミユはノーベル文学賞を受賞している。ノーベル委員会はカミユに軍配をあげた形になっている。