「私を離さないで」(私を)をようやく読み終わりました。途中で挫折して「遠い山並みの光」(遠い)、「浮世の画家」、「日の名残り」と読み、再び「私を」を読んだわけです。「私を」以外は比較的早く抵抗もなく読めましたが「私を」はちょっと時間がかかった。
四作品の感想を順不同に述べます。メモしておかないと忘れてしまうので。「遠い」と「浮世の画家」は日本の家庭が舞台ですが、一部の評論家の言うような違和感は感じなかった。とくに「遠い」は日本の作家の作品と言われても不思議ではない。
浮世の画家では大家の画家が朽ちかけた別荘で弟子たちとの共同生活をしている描写は「どうかな」と思うところがありましたが。家族の会話も普通の家庭とは違うようだが、これはおそらく彼の家庭の記憶がもとになっているのでしょう。祖父は戦前上海で会社を経営していたというし、長崎では三階建ての洋館に住んでいたというが、そういう生活をしていれば、やや標準とは違う家族の会話もありそうに思われる。育った家庭や家屋というものは作品に反映されやすい。前の記事で家族の概念がないと書きましたが、これは「私を離さないで」について述べたものですから念のため。
さて、日の名残りと私を離さないでとのあいだには16年の開きがあります。その間に「充たされざる者」と「私たちが孤児だったころ」が書かれています。いずれも未読ですが、「日の名残り」と「私を」のあいだにはかなりの変化があるようです。しかし、これまでに読んだ四書のうち「浮世の画家」、「日の名残り」と「私を離さないで」の三作品の間には共通点があります。いずれも奉仕者と奉仕されるものの関係です。そしていずれも奉仕するものが、その体制を否定、反抗するのではなくて、「奉仕するもの」と「奉仕されるもの」の社会的枠組みに順応して生きていく様々な人生を描いていることです。
「浮世の画家」では戦前の社会のムードのなかで、「日本精神」運動を主導した老画家の戦後を描いています。ここでは「奉仕されるもの」が人間集団ではなくて「世間の風潮」です。山本七平流に表現すれば「世間の空気」です。「日の名残り」では奉仕するものは執事であり、奉仕されるものはその主人です。「私を離さないで」では奉仕する者たちは臓器提供者になるように育てられたクローン人間であり、奉仕されるものは臓器提供を受ける「一般の」人間たちです。
次回:「私を離さないで」での作者の意図