穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「私を離さないで」の書かれざる前提2

2018-01-30 10:55:34 | ノーベル文学賞

 15,6歳になるとヘールシャムを出て「コテージ」に行く。コテージというのは外部世界の近縁あるいは真ん中にあり、クローンたちは一般商店にも行けるし、そこらあたりをドライブできる。それは卒業後に備えた予備校のようなものらしい。ここでヘールシャム出身の彼らはほかの養殖農場からきた少年少女と一緒になる。ここでヘールシャムの特徴をいうと、一種のNPOによって運営されている優良牧場でほかの農場と比べて生徒たちはよい教育と待遇をうけている。一般社会と同じような教育を受け、スポーツも楽しんでる。ということはほかの農場はかなり劣悪な飼育するだけといった場所であることを暗示している。

 この段階に来ると彼らはクローンであることを自覚するようになり、自分たちの将来を理解する。何回かの臓器提供を行ったあとで、早いものでは二十台、だいたい三十歳までに死ぬということもわかるのである。しかし、彼らは一般社会に逃亡しない。理解できないが、逃亡しないというのが「暗黙の前提」なのである。一般社会の人たちと親しくなることもないし、恋愛したりセックスをすることもない。ちなみに農場経営者側は一般人とのセックスを禁止していない。クローンは生殖能力がないから妊娠する、させる心配がない。ただ、将来の臓器提供にそなえて、健全な臓器を提供できるように感染症などにかからないように注意されるだけである。しかし著者は一般人とのセックス場面は描いていない。

 当然に制度として、全国的に臓器農場を管理する組織が前提とされる。例えば農林省とか厚生省とかね。しかし著者は一切それらのことには触れていない。どこかのインターネットのサイトでどうして彼らは海外に逃亡しないだろうか、と疑問を呈していた。多分、彼らには身分証明、日本でいえば戸籍がないのだろう、したがってパスポートも取得できない。ま、これは余談だが。

 


「私を離さないで」の書かれざる前提

2018-01-30 07:18:05 | ノーベル文学賞

 これがクローン人間の養殖農場の話であることは、読む前から、たいていの読者の耳(あたま)に入っている。改めて早川文庫のカバーを見るとクローンなんてことは一語もないが情報社会である。その程度の情報は読者間に流布している。帯はなくなってしまったが、おそらくオビにもクローンの字はないだろう。ネタバレという語感の汚い言葉があるが、まさかネタバレを隠しているのではあるまい。

 イシグロ氏の執筆にはいくつかの語られざる前提がある。それらは一般読者が読んでいれば自然に分かるというものではない。これが厄介なところである。小説は猿飛佐助のようにいろいろな時系列を飛び回るが、物語は少年少女初期(12,3歳ころまで)の追想から始まる。読んでいてまず不思議に思ったのは、この養殖農場(ヘイルシャム)は盆地の中にあるがまわりに塀や有刺鉄線があるわけではない。外部の人間も中に入り込んでくる。小説や詩も授業で教える。小説や詩は外部の、あるいは全体の世界がわからなければ理解できない描写に溢れている。たしかテレビも見られたのではないか。当然幼い子供といえども外部の世界に強い興味を持つはずだ。そして子供の常として外部の(一般)社会に行きたい、見たいと思うはずである。ところがそういう自然な自発的な行動は小説の中では全くない。ありえないことだ。

 イシグロ氏はあるインタビューでこの自作を解説して、子供というものは、大人が与える情報の枠の中でしか考えず、行動しないからと、この記述を正当化している。そうだろうか。読者を納得させるように言うなら「そういう前提で書いている」というべきではないか。それなら作者の自由だから問題はないまもしれない。

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