穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

論理哲学論考に対する挑発

2020-01-01 23:01:14 | ウィットゲンシュタイン

 論理哲学論考(論考)は1918年に完成しその後出版された。Wの思考はその後発展していわゆる後期思想へと移っていったと言われる。しかし、W自身は論考の内容を部分的にも否定していないようだ。また、彼が生前出版したものは(モノグラムはあるのかもしれないが)論考だけである。だから第三者が論考をWの思想として捉えて批判するのは当然である。たとえば第三者は1946年のポパーである。

そして論考とはこれまで僭越ながら小生が述べたように穴の多い、つまり批判の対象になりやすい内容である。もっとも、そういう人物は少数かもしれない。現在でも彼の読者は論考に「うっとりしてしまう」(岩波文庫訳者の解説による)のであるが。

1946年当時Wはすでに学会のビッグネームである。ポパーは売り出し中の新人である。ポパーは論考を対象としてWを挑発する作戦だったと推量する。そうすると、すぐにかっとなりやすいWが興奮して我を忘れたという事件の背景が見えてくる。ポパー自身、事件を回顧して挑戦だったとか、挑発だったとかいう言葉を使っていたと書いているそうである。

以下はポパーがそう言っているということではないが、前回触れた6.53にある「科学的命題」という表現も妙だ。普通そういう言い方はしないだろう。自然科学の探求は科学的命題を作ることではない。自然法則の探求、発見を目的とするものだ。Wが自然科学を珍重するのはいい。しかし、科学とはどういうものか、ということに一言も触れないのはどういうことだ。

自然科学活動の最大の問題は方法論である。自然科学がどういうものであるかを論じなければ6・53のような結論は出せない。また、探求の方法はどうあるべきか、を論じるのが科学哲学であろう。そこにまるで触れないのは科学哲学者のポパーにとっては最大の欠点と見えるだろう。この辺を突かれてWは激高したのではないか。

「科学的命題」(Wの評言を使うなら)の作成は科学活動を先導する場合もあるだろうし、後追いする(つまり研究活動の後始末、整理、お掃除)場合もある。そして実際は後追いになるだろう。先行するというのはドグマに基づいて研究するということだから望ましくないことが多い。

そして「科学的命題」(Wの言葉を使うと)つまり科学法則とは仮説を作るということではないか。新しいデータが観測発見されて仮説が覆がえされない限り、「仮説」は「法則」なのである。大抵の人は専門家でも仮説をドグマと考えているが。

Wには自然科学論がない。概念のないところに適切な表現はない。彼には認識論と科学の方法論に対する思考が欠けている。したがって、6.53は「無意味」である。

 


強烈なハレイションを起こす男ウィトゲンシュタイン

2020-01-01 07:51:52 | ウィットゲンシュタイン

 ウィトゲンシュタインの立場から言うと師フレーゲも最大強力なサポーターで彼を世に出したバートランド・ラッセルもウィーン学団もWを理解していない、誤解している。ラッセルには面と向かって何度も宣言している。火かき棒事件のあともWはラッセルに「あなたはいつも私を誤解しているね」と言ったそうである。

 時空を異にする第三者である私にはラッセルやウィーン学団のメンバーが誤解していたかどうかは分からない。しかしすでに一世紀を経た現在も多くと哲学教師や学生から相変わらず熱狂的な支持を受けている。それが誤解かどうかは不問に付すとして。一言でこれを表現すれば、大狂気のように漆黒の闇を貫いて天地を二分する稲妻がWと言えようか。あるいはその閃光を受けたものに強烈なハレイションを惹き起こすものと言えようか。

 哲学的命題はすべて無意味であるという。ちなみに哲学的命題とは何かの定義はおろか説明もない。無意味であるという証明は論考を通読したところ一例もないから頭の悪い人間にはドグマだけ示されても理解できない。また、彼がいろいろと述べているところから自明的に誰にでも証明できるとも思えない。

 推測するところ(根拠はないが)科学的命題のみが正しいというごく常識的な通説のようである。ただし、このことが推測できるのは(6-53)のみである。

6・53:『自然科学の命題以外は、それゆえ哲学と関係ないこと以外は、何も語らぬこと。』
これは単純な話だが、文章としてもおかしいね。「哲学に関係ないこと」は「すべて自然科学の命題」ということになるが、そんなことがあるのかね。

 Wは自分のやっていることは『無意味』だという思いにとらわれることが多かったようだ。
人口に膾炙しているのは6-54の
『私を理解する人は、私の命題を通り抜け、その上に立ち、それを乗り越え、それがナンセンスであることに気づく』、、、
『いわば梯子を登り切ったものは梯子を投げ捨てなければならない』

 このくだりは有名だが、今度初めて読んだ序にも同じようなことが書いてある。
『本書の価値の第二の側面は、これらの問題の解決によって、いかにわずかなことしか為されなかったも示している点にある』
やれやれ、、、