穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

59:正月病について

2020-01-11 11:05:15 | 破片

「そういえば」と第九が口を開いた。「正月の街頭というのは不穏な空気が漂っていますね」
下駄顔が面白そうに第九の顔を見た。
「たしかに昔とはだいぶ違っているね。表で女の子が羽子板をついているなんて言うのは見かけないからな。町はゴーストタウンみたいになっている。一種異様な空気が流れている」
「たしかにね、それが盛り場に行くとものすごい人出なんですね」
「正月はとんと盛り場に脚が向かないが、みんな実家に帰って盛り場は閑散としているんじゃないですか」
「東京の人、田舎から東京に働きに来ている人という意味ですがね、地方の実家に帰るが今度は地方の人が大挙して東京なんかに来ているみたいですね」と卵型頭が言った。
「そういえば町には地方ナンバーの車が多くなりますね」と第九が言った。「お盆の時もおなじだな。休みに旅行に出る人と、東京に遊びに来る人が入れ替わるんでしょうね。それに最近は外人が多いから、彼らには正月もお盆もないからな」
「よく五月病とか言うじゃないですか。あれは新入社員のことらしいが、発症するのは五月の連休明けらしいからね」
「とにかく長い休みというのは調子が狂うんだろうな」
「体だけじゃないですよ。精神にも変調をきたす人が多いらしい。正月の街歩きは気を付けないといけませんね」とクルーケースはやや落ち着いて話した。どうやらおかしな女はここまで追いかけてこないので安心したようであった。

店の入り口あたりで若い女たちの嬌声が突然はじけた。クルーケースの男はぎょっとして口に含んでいたコーヒーをむせて咳と一緒に吐き出した。
「ああ、橘さんだ。今日は大当たりだったらしいな」と下駄顔は入り口のほうをみた。パチプロの橘氏が真っ赤な顔をして店員の若い子たちに景品のチョコレイトを配っている。

彼は第九たちの席に来ると煙草のカートンを三本テーブルの上に置いた。「あなたは煙草を吸うんでしたっけ」というと一本を下駄顔に差し出した。そして残りの二本を困ったように宙に浮かせた。第九が気を利かして「私は煙草をやらないですから」と助け舟を出した。橘さんは卵型頭とクルーケースの男に一本ずつ渡した。

彼はウェイトレスに注文すると、「だいぶ話がはずんでいるようですね。なにか面白い話ですか」と聞いた。
「正月休みは街におかしな人が増えるという話をしていたんですよ。それとお盆とかゴールデンウィークにもおかしな人が街に増えるということをね。そうだ、あなたは精神科のお医者さんだったから聞くんですが、お正月なんか患者の症状が悪化するなんてことがあるんですか」
橘さんはパチンコの大当たりの興奮がまだ冷めないのか、太り気味の体から汗が噴き出して止まらないらしい。おしぼりで顔を拭き、額を拭い、後頭部にタオルを回し、最後にワイシャツのボタンを外してわきの下をゴシゴシとぬぐった。一息入れるとうーんといって考えていたが、それは確かですね、と答えた。
「どうしてですか」
「生活のリズムが狂うんでしょうな。大体正月はね、医者も休むし担当の看護師も交代で休暇をとるから人手が少なくなる。病院の雰囲気が変わりますよ。患者はそういう変化には敏感でね。それで病院の判断で快方に向かっているとか、まもなく退院させられそうだというのを家に戻すんですよ。家族と合意が出来ればね」
「フーン。しかし大丈夫なんですか」
「いや、途中で暴れる可能性もあるから一人では出しません。病院の人間が付き添って家まで送っていくのです」

その話を聞いて第九が思い出したように言った。「わたしも一度地下鉄で変な男に理由もわからずに絡まれたことがある。あやうく線路につき落とされそうになったですがね、その時に、その男の連れが急に現れてね、その変な若者を後ろから羽交い絞めにしたんですよ。そうしたら訳の分からないことを喚いて私を蹴ろうとして男が一変しましてね」
「どう一変したんですか」
「急に女の子みたいに、まるで借りてきた猫のように大人しくなったんですよ。いま考えると狂人を羽交い絞めにした男は付添いの看護師だったのかもしれない」
「それも正月休みですか」
「さあねえ、正月ではなかったな。暑いころだったからお盆の時だと思います。どうなんですか先生」と元精神科医のパチプロ氏に聞いた。

「そうかもしれません。付き添いの人間には従順に従うように慣らされていますからね。あなたが乱暴されそうになった時には付き添いはいなかったんですか」
「ええ、急に現れましてね」
「地下鉄のホームと言いましたね。そうするとなにか自動販売機に買いに行ったのか」
「いや、なにも持っていなかったと思いますね。はっきりとは思い出せないが」
「それじゃあ空き瓶を捨てに行って帰ってきたのかな」とクルーケースが言った。

「若い男は背の高いスポーツ選手のような体をしていたが、付き添いのほうは線の細い小さな男で、その男に制止されたらまるで別人のように大人しくなったのが不思議でね」

「サーカスなんかで女の調教師の鞭に唯々諾々としてしたがうライオンがいるでしょう。あんなものなんですかね」とクルーケースが言った。
「ところでさっきあなたが遭遇した女はどんな女だったんですか」と橘氏が問いかけた。