夜間晴れて冷え込んだせいか、午前十時を過ぎたのに筑波山がまだ黒々と山麓まで見せている。第九はこの一週間数軒の不動産屋をまわって集めたパンフレットを朝食の後を片付けたテーブルの上に並べた。彼の雇い主である洋美のご下命で引っ越しのためのファイナンシアル・プランの作成を命じられていたのである。
電源が停止して使用不能になった武蔵境のタワーマンションに恐れをなした彼女は低層住宅への引っ越しを考え始めた。それで彼に市場の調査を命令したのである。といっても不動産屋を回って資料を集めるだけである。今どきこんな資料はインターネットで手に入りそうなものだが、彼女はインターネットでの資料集めを厳禁したのである。そんなことをするとDMの洪水に見舞われるというのである。クッキーをオフにしておけば辿られることはないといったのだが、マイクロソフトのソフトを全く信用していない彼女はダメだというのである。
「だいたいそういうサイトはクッキーをオンにしないとつながらないようにしているわよ。昔は(週刊住宅情報)とかいう厚い雑誌があったけど今でもあるかな」と彼女がいうので本屋で探したがそんな本は置いていない。インターネットの発達で紙の情報誌は消滅したらしい。そこで一軒一軒不動産屋をたづねたのである。
不動産屋に行くと大抵はアンケートというものを書かされる。彼女はそのことにも注意を与えた。彼女の指示にしたがって、彼は偽の住所と氏名を書き込むのである。ファイナンシアル・プランナーの彼女は同様の方法で収集した個人情報を自分の仕事には使うのだが、自分のプライバシーが使われるのは断固拒否するのである。「個人情報を安売りしちゃだめよ」と釘を刺されている。偽名を使うように厳命されているのだ。かれもうっかり本名を書いてあとで長期間散々強引なセールスに悩まされたことがあるから彼女の厳命を守っている。「ポイント狂いの中年のおばさんみたいなマネをしないでね」と彼女は諭すのである。
彼は氏名欄に山下太郎と記入する。住所はモトカノ(ジョ)の住所を書く。年齢は区切りのいいところでまあ見た目もそう変わらないように35歳と書くのである。職業は勿論会社員である。
彼女の指定は七階建て以下のマンションである。つまりエレベーターが止まっても階段で上り下りできるところである。そして出勤に都合のよいように新宿へタクシーで千三百円以下で行けるところである。そして山手線の内側でなければならない。
こんなところは都内ではあんまりなさそうだと彼は思った。エッチラ・オッチラ通勤電車に乗って郊外に行かないとなさそうだ。しかも彼女は中規模のマンションを指定するのである。33戸以下のマンションは対象外である。また118戸以上のマンションもダメなのである。気楽に住めるのは、彼女の主張ではその中間の規模である。
これだけ条件がきついとなかなかなさそうだと思った。その上築年数は10年以下、大規模修繕後なら3年以内というのがご指定である。分譲でも賃貸の両方で探してくれという。
「どうしてだ」と聞くと今のマンションが売れれば売却資金で分譲を購入してもよし、あまり良い値段で売れそうもなければ、今のところを賃貸に出して、ほかの賃貸に引っ越すことを考えているらしい。だから売れそうな値段と賃貸にどのくらいで出せるかとの兼ね合いなのだが、両方ともまるで分らない。それも市場調査をしろ、というのだが、なにもかもいっぺんには出来ないからまず買うほう、借りるほうから調べることにしたのである。