いきなり『触らないで』とどう採っていいのか分からない声をかけられてね」
「というと」
「こちらはその女の体に触れたわけではなく、触れたとすればこのバッグが当たったのかもしれないが気が付かなかった」
「触らないで、というのも妙だね。何するのよ、とか、失礼ね、とかならあるかもしれない。しかし、それでもおかしいね」と卵型頭(エッグヘッド、EH)が口を挟んだ。
そこへ女性が橘さんの注文したジンジャーエールで割ったウイスキーを運んできた。
第九が声をかけた。「ちょっと聞きたいんだけどね」
「何でしょうか」
「たとえば込んでいるスーパーとかでほかのお客さんとすれ違って体が触れることがあるでしょう。そういう時にどうしますか」
「別に、よくあることじゃないですか」
「それじゃ、すこし触れ方が強かった場合は、背中とかお尻に触られたとか」
彼女は変な顔をして第九を見ていたが、「そうですね、一応振り返って確かめるかな」
「なにか言いますか。何するのよ、とか失礼ね、とか」
「いきなりですか」
「そう」
「まさか」
「じゃあ触らないでなんて言わないよね」
「当たり前じゃないですか」
今度は下駄顔(ジャパイーズ・サンダル=JS)がクルーケースの男(CC)に向かって聞いた。
「触らないで、なんて水商売の女が客を挑発するときに使う言葉みたいだな」
「そうそう、触らないで、なんて言っても、その心は触ってもいいのよ、早く触って、だからな。そっちに気をとられていると注文もしない山盛りのオードブルが運ばれてきたり、ビールが何本も出てくるわけだ」
CCはうなずいた。「まさにそれですよ。おさわりバーの女のような、キャバクラの女のように調子をつけていましたよ。それでね、妙な女だ、どんな人間だろうと女の背後を通り過ぎてから振り向いて女を見たんですが、これがいけなかった」
「いい女でしたか」
「とんでもない。見てぞっとしましたよ。顔は土色、髪はざんばら、眼は二つの洞穴、鼻も二つの黒い穴です。薄汚れたコートをひっかけていてね」
「ヤク中みたいだね」
「ええ、それに目がすごいんですよ。明らかに正常な精神ではない。洞穴の奥でゾンビみたいに光っている。それが異常な眼力がある。それでね、ぎょっとして目が離せなかったのがいけなかったらしい。よく不良なんかが、なんだガンをつけやがって、ていうでしょう。その女も私の目線が気にいらなかったんでしょう」
「あの種の人間はそういうことですぐに興奮するからね。それでどうなりました」と橘さん。
「いきなり口汚くののしりだしたんですよ。このくそ野郎とかバカ野郎とか、ぶっ殺してやるとか言ってね。あとは意味不明でね。ところが罵詈雑言のボキャブラリーは豊富ではないらしい。おなじ言葉をくりかえしているんですよ。それで私もはっと我に返りましてね。逃げ出したんです。ところが、そうしたら女が私を追いかけてきたのには驚きました。気味が悪くてね、後ろも見ずにここへ逃げ込んだわけです」