穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

85:パチプロ橘さんが失業

2020-04-20 08:28:05 | 破片

 ところで今何時ですか、と時計を持っていない第九は老人に尋ねた。彼は腕時計に目を落とすと、もう三時だね、と盤面を読んだ。
「もう、だれも来そうもありませんね」というと第九は再び読みかけの記事を読み始めた。
 どうもさっきJS老人に解説したことは間違いだったらしい。記事で宇宙と言っているのは数学的な宇宙ということのようだ。これでもまだ紛らわしいな、と彼は思った。数学、幾何学で表現できるすべて、ということらしい。それならシステムが違う体系がいくつあっても不思議ではない。べつにSFのように鬼面人を驚かすような話ではないのかもしれない。記事にパラレルワールドなんて書いてあるから誤解するんだ。

 オイオイと老人がびっくりしたような声を漏らした。「噂をすれば何とやらだぜ、珍客だ」
第九が見上げると入り口からパチプロの橘さんが入ってきた。今日は景品の茶色の紙袋をさげていない。儲からなかったらしいな、と彼は思った。ママがびっくりしたように大きな声を上げて挨拶をしている。

 橘氏は近づくと椅子一つを開けて腰を下ろした。
しばらくご無沙汰だったね。ひと月ぶりくらいかな、とJSが言った。
「十日ほど地方を回ってましてね」
「地方のほうが儲かるんですか」
「いえいえ、そんなことじゃないんです。緊急事態宣言で東京のパチンコ屋は休業中ですからね。まだ営業している地方の店に行っていたんですよ」
「なんか、東京のパチンカーが大挙して田舎になだれ込んでいるらしいな」
「そうなんですよ。いやもう大変な混雑で」
「関東近県にご出張でしたか。家なんかも早朝に出なけれならないんですか。私はパチンコをしないからよくしらないが、開店前に並んで良い、つまりよく鳴きそうな台の奪い合いを客同士でするそうですな」

その通りで、というと店の紙ナプキンで脂ぎった顔をごしごしと拭いた。「10時に開店ですから、早くから行列に並ぶには家を7時ごろには出ないといけない」
「それは大変な仕事ですな」とJSは橘氏に同情を示した。
「それでね、東京に近いところは特に込み合うから宇都宮とか福島まで行きました」
「へえ!」と言ったきり驚いて二人は声が出ない。
「何時に家を出るんです」とJSが気が付いたように聞いた。「新幹線でも使うんですか」
「そうなんですね。それでも早朝に家を出なければならないので、向こうでビジネスホテルに泊まっていました。値段的にはそのほうが経済的なんですよ」
「そんなに忙しくてはダウンタウンに帰りに寄るなんて余裕はないわな」
「申し訳ありません」と橘氏は律義に謝らなくてもいいのに頭を下げた。

それで今日はパチンコ屋通いもお休みになったんですか」と第九は聞いた。
「ええ、当分は休業ですよ。地方にもオイオイと緊急事態宣言に追随することが出てきましてね。そのうちに全国のパチンコ屋は休業になるでしょう。それで今日は仙台のビジネスホテルをチェックアウトして戻って来ました」と橘氏は几帳面に報告をしたのである。

「それで今後はどうなさいます」といつの間にか近くに来ていたママが心配そうに聞いた。
いや、それですがね、と橘氏はくちゃくちゃになった紙ナプキンを再び広げると禿げあがった額を二度三度と拭ったのである。「馬券師に復帰しようかと思うんですよ」