穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

107:ブックカフェにて

2020-06-15 08:38:37 | 破片

 橘氏は肩掛けカバンから「岩波文庫・ヘーゲルからニーチェへ;上巻」を取り出した。著者はカール・レーヴィットである。初版の序文には「仙台(日本) 1939年春」とある。

 彼はユダヤ人でナチスを逃れて日本の東北大学で教えていたが、日本がドイツと軍事同盟を結び、対英米戦争を準備し始めるとこの直後アメリカに再亡命している。日本への招聘にはドイツ留学時代に親交を結んだ九鬼周造の斡旋があったと言われる。

 原文の特徴なのか、翻訳のせいか、この大部の本の記述は散漫であり、流れを追うのが困難である。彼がこの本を買った理由はヘーゲルの急死後たちまち分裂したヘーゲル派の動向に興味があったからであった。いわゆる青年ヘーゲル派と老年ヘーゲル派への分裂である。老年ヘーゲル派は中道派と右派とに分けられることがあるが、基本的にはヘーゲルの思想を忠実に継承しようとするものである。

 記述がとりとめもなく、かつ延々と続くので筋道を見失わないようにと橘はメモ帳を取り出して、気が付いたことを書き出した。

 青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)は思想的には一本にまとめられない。ヘーゲルの哲学を根本的な部分(それぞれが否定する考えが違うのが厄介なところだ)で反旗を翻すということで一致しているだけである。顔ぶれを見ても一筋縄ではいかないくせものばかりである。

 フォイエルバッハ、ルーゲ、バウアー、シュティルナー、マルクスといった顔ぶれである。ときにはほぼ同時代人であるキルケゴールを加える。ただ彼をヘーゲル左派に含めるのはちょっとおさまりが悪いようである。

 それぞれがお互いを批判しあっているが、現代まで流通している(簡単に手に入る)のはマルクスの書いたものらしい。かれには「ドイツ・イデオロギー」という本がある。文庫にも入っているものでかなりの分量がある。しかし、未完の作品で後世行われた原稿の整理にも首尾一貫性がないようだ。マルクスの片言節句を教祖様のお筆先のようにあがめ奉る人間でないと読む人はいないだろう。彼も読んでいないのである。

 おっと、忘れていた、と彼は呟いた。マルクスの資本論の序文に何行かあったような。彼は記憶をたどった。そうだ、と独り言を言って彼は立ち上がった。こういう時にはブックカフェというのは便利である。隣の大書店の文庫の在庫は豊富だ。彼は「出典」を探しに大書店の迷路に入っていった。