穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

109:フォイエルバッハ

2020-06-17 09:37:51 | 破片

 どうもへーゲルの死後、大暴れをした青年ヘーゲル派には二流れがあるらしい。マルクスの記述によると、シュトラウスやバウアーは完全にヘーゲル論理学の枠内に収まっている。つまりうんともすんとも言及がないということだ。

 一方フォイエルバッハはヘーゲルの論理学にも言及している。ただし、冷淡にあるいは批判的にということらしい。シュトラウスやバウアーについては普及型?のアクセス出来る資料はないようだ。フォイエルバッハについては文庫本がいくらかあるようだ(これが俺のいう普及型アクセスだが)。フォイエルバッハについては後で読んでみることにした。しかし、シュトラウスやバウアーについてはマルクスのいうことを信用するしかない。

 ヘーゲル哲学で弟子たちがしゃぶった師匠のキモは要約すると二つあるようだ。いわく疎外、いわく弁証法である。フォイエルバッハはもっぱら疎外をしゃぶった(発展させた、あるいは応用した)。キリスト教の批判に応用したのである。マルクスは疎外も弁証法も貪り食ったということらしい。

 マルクスのよればフォイエルバッハは「古い弁証法と哲学を根こそぎひっくり返した」。一方そのほかの青年ヘーゲル派は観念論を捨てず「生みの親であるヘーゲルの弁証法と批判的に対決しなければならないのではないか、という予感を一度たりとも口にしなかったし」云々。

 マルクスはフォイエルバッハには親近感を持っていたらしい。それは彼がドイツ最初の唯物論哲学者だということであるかららしい。またフォイエルバッハは後年マルクスの資本論を読んで社会民主党員になったから好意を持っていたのだろう。

 おっと、忘れてはいませんか、マックス・シュティルナーはどうしましたか。調べてみると彼が「唯一者とのそ所有」を発表して世評を沸騰させたのは、マルクスが草稿を書いた翌年でした。したがって草稿には出ていない。翌年(とみられる)マルクスが書いたドイツ・イデオロギーにはシュティルナー論が出ているという。

 この辺のいきさつがレーヴィットの本には一言も書かれていない。これじゃ「ヘーゲルからニーチェまで」を期待して買った読者は肩透かしを食わされたような気がするのではないか。