さてと、と橘源九郎氏は呟くと、さっき買ってきた最後の本を取り上げた。岩波文庫の「ドイツ・イデオロギー」である。ざっと拾い読みで流したが、『これはだめだ』とため息をついた。
原著の編集者は苦心惨憺して散乱したメモを本に纏めたらしいが、いくつかの致命的欠陥がある。筆者マルクスのナラティヴであるが、どれがマルクスの意見なのか、どれが批判言及している相手からの引用なのか判然としない。言っていることは簡単なことばかりなのでそれはそれとして難しいところは無いのだが。
それとやたらに翻訳者の註が多いのだが、ほとんど無意味である。註というよりかは参照すべき原典、ふつうは参照文献というようなところに纏めてあるものが多い。また、当然註ないし解説があるべきところに何もない。シュティルナーに言及しているところで「ヒエラルキー」という言葉がある。なにも解説がない。もちろんヒエラルキーは和製日本語になっている。がここでシュティルナーが言っていることは西洋中世カトリックのいわゆる教権秩序のことである。ヒエラルキーと澄ましていては何のことだか戸惑う。
そこで訳者は誰かな、と表示を見る。廣松渉編訳、小林昌人補訳とある。編訳は監修というか監訳ということだろう。補訳というのはどういうことだかわからない。あまり見かけないようだ。はじめて見た。
廣松渉氏という故人はマルクス主義哲学の大御所であったことは私も承知している。そのせいか、いろいろな訳者に監訳というかたちで名前を貸していたらしい。しかし、本当に翻訳に目を通していたのか。そうならいささか尊敬も薄らぐ。
前に読んだ本で、たしか、マッハの本だったかにもずいぶん翻訳が珍妙なのがあった。その本にも廣松渉監訳とあって驚いたことがあった。
「ドイツ・イデオロギー」に見切りをつけると時計を見た。もう五時をとっくに回っている。驚いて彼はまだ半分はグラスに残っていた不味い番茶コーヒーを指定された捨て場に持っていくとブックカフェを出たのである。