承前:この『建てること、住むこと、考えること』では主語が二つある。『橋』がその一つ。二つ目は「建物」である。ハイデガーは箸が、もとへ、橋が好きである。人それぞれである。『井戸』が好きで好きでたまらない人がいる。彼は橋が大好きなのだ。
以下では僭越ながら橋は建物を代表しているとして建物を主語として記述を進める。橋を主語にするのはなんとなくしっくり来ないのでね。ここでも例の四方界、つまり天空、大地、神的な者たち、死すべき者たち(人間)が主役である。
『死すべき者たちが存在するのは、住んでいるからです』。てえと、住んでいるから存在しているわけだ。死んだら住んでいないから存在しないのかな。もっとも、民俗学によると未開民族の間では親族が死んでも同じ家に住み続けていると考えることもあるらしい。先進ドイツ民族ではどうなのだろう。そういうことなのだろうか。哲学的に、宗教的にはどうなのかな。ハイデガーは人間は死をよくするものだという。動物は生を終わるだけだという。わざわざ区別しているところを見ると彼は霊魂不滅説なのかな。明言していなかったように記憶するが。
さて、四方界との関係であるが、
『死すべき者たちが存在するのは、大地を救う限りです』。ここで長々と救うとはこういう意味だと長々と講釈しているが省略する。
『死すべき者たちが住むのは、天空を天空として受け入れるかぎりにおいてです』
『死すべき者たちが住むのは、神的なものたちを神的な者たちとして待ち望むかぎりにおいてです』
つまり
『大地を救い、天空を受け入れ、神的な者たちを待ち望み、死すべき者たちに連れ添うという形で、住むことは、四方界を四重の仕方で労わる出来事としておのずから本有化されます』
以上がハイデガーの家相学である。第九の解釈は付け加えない。付け加えようがないではないか。
ハイデガーはまだ言い足りなかったらしく、『家は(原文では橋は)、四方界に宿り場を許容するという、まさにそのような仕方で四方界を取り集めるからです』
『建物は(ここでは主語は建物になっている)は四方界を安全にしまっておくのです。建物とは、建物なりの仕方で四方界を労わる物なのです』
技術はそういう建物を現前的にもたらす、生み出すものなのです(第九の意訳、文庫本88ページ)。第九の気が付いた範囲では技術に触れているのはこの二、三行のみである。当たり前のことが書いてある。