大分前だがこのブログで書いたことがある。ある書評家が日本のハードボイルド作家のリストを作ったのだが、それを読んでびっくりしたことがある。確か志賀直哉とかなんとか一般作家(きれいな言葉でいうと純文学作家というのだろうが)の名前が延々としてリストされていた。それでその私の(びっくり印象)をブログに書き散らかしたことがあった。
その後、どこかで村上春樹が藤沢周平の「消えた女」をハードボイルドとして絶賛していた文章を読んだ。古いことで記憶が正確ではないかもしれない。ま、そう憶えている。ハルキ様がそんなことは言ったことがないよ、と抗議されれば、ごめんなさいであるが。
先日、自転車にぶつけられないで一日一万歩運動を目指して大型書店を五周していた。この頃は「長時間店内にとどまることはやめてください」なんて張り紙が出ている書店がある。まさか俺のことじゃないと思うのだが。試読ベンチでパンを食ったり、長時間粘るホームレスみたいな人とか、おじいさんが長い昼寝をしているのを見かけるのでそういう人に注意しているのだろうと思う。ひょっとすると俺のことなのかもしれない。
まったく日本の町では自転車にぶつけられないで漫歩できる道は皆無である。こんなことでオリンピックなんか開催していいのかね。
さて、文庫のシマで該書消えた女を見た。頭書したような記憶が蘇ったのだろう。引っこ抜いて長部日出夫氏の解説を眺めた。これはハードボイルドの傑作であるらしい。書評家のドッコイショは信用しない俺だが、ちょうど読む本がなくなっていたので贖った。
家に帰った読んでみた。最初の十数ページは丁寧に書いているな、という印象だった。しかし読み進めると何というのかな、同じことの繰り返し、というか波がない。メリハリがない。小場面は勿論沢山あるのだが、そして場面も違う、登場人物(主人公を別にして)、いろいろ出てくるが印象としては全部おなじトーンなんだな。ある意味では楽をして書き流しているという感じだ。もっともほかのようには書けないのかもしれないが。
時代物の捕り物帳なんだろうが、深川の町を舞台にしている。それは良いんだが、町の名前がうんざりするほど続く。考証物としては何時の時代なのかな、というのが書いていない。作者はおそらく江戸切絵図に頼っているのだろが、そうすると幕末か江戸後半期かな。徳川幕府は三百年続いたんだからね。隅田川の対岸の深川は新開地であったわけで三百年の間には開発が進んで大きく変化しているはずだ。その辺は時代が分かるような工夫がほしかった。
もう一度解説を読んでみたが、かなりひどいものだ。日本ではハードボイルドというと、なにやらありがたい印象を与えるらしく、一種の誉め言葉として無批判に使われている。民主主義とか戦後民主主義と言う言葉が幼稚な作家、文化人に無批判に葵の御紋として使われているようなものだ。
ハードボイルドと言われているものはあくまでもアメリカの一時代に咲いたローカルなジャンルである。もっとも、これは俺の考えだ。言葉と言うものは使っている本人が**だと強弁すれば、それで通用するところがあるからね。
日本では仁侠映画をハードボイルドと言うことがあるが、笑止千万である。あんなにウェットな世界はない。義理人情の世界だろう。やくざと言う特殊社会の義理人情だから一般の義理人情とは違うが。同様に「消えた女」も私の見るところウェットきわまる小説である。