穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

76:ヤッコと主人

2021-07-08 19:36:18 | 小説みたいなもの

「そういう場合、個人と言うか団体、国家などと個人構成員との関係は奴隷(ヤッコ)と主人の関係になるわけだ」と鬼薊(オニアザミ)金太郎が補足した。

「その通り。しかし団体、党、国家には人格はない。だから疑似人格を想定するのだが、それが綱領とか憲法になるわけだ」

「しかし、実際には特定の個人とか小集団というか集団内集団が牛耳る。全権の代弁者を気取るわけだ」

「カトリック教会の場合は神の代弁者を気取るわけだな。神と大衆の間には直接的な交渉はない。教会が仲介者になる。ということは実際には民衆の上に全権を持って教会が君臨して解釈を独占する」

「中世では聖書を民衆には読ませなかったわけだ。もっとも民衆は文盲だったから読めないわけだけどね」

「現代では共産主義国家では共産党がおなじ構造で民衆に君臨している。彼らが作った綱領とか政策が国家の権威として個人を支配している。実際にはこのメカニズムで特定の個人集団やファミリーが支配しているわけだけどね。その権威は銃口や脅迫から生まれている」

「ルイ十四世だったか、朕はは国家なりといったがね」

大阪が言った「お釈迦様が分娩直後に『天上天下唯我独尊』と仰ったというが、あれもそうかな。まてよ、これはお釈迦様が起点の発言だから個>特殊、普遍なのかな」

「どうかな、ちょっと違うようだ」と魚味教授は首をひねった。両方向性じゃないか。釈尊誕生前から古代インドにあったウパニシャット哲学の考え方の延長じゃないかな」

「ウパニシャットというとバラモン教の」

「うん、梵我一如という言葉がある」

「???」

「梵というのは宇宙の原理だ、ブラフマンという。我とは個人の本体であるアートマンである。両者は同じであるというわけだ」

「で、仏教ではそういう境地に至るのを悟りというのかな。そうすると両方向性ということか」

「そうだが、比重はブラフマンにある。その境地に達しろというのだがら、ブラフマンが目標だからね」

「古代ギリシャ哲学でいうヌース(理性)に近い概念だな」

「そうだよ」

「でそういう梵我一如に到達するにはどうしたらいいのかな」

「色々あらーな、と言うこと。修業とある者は言う。あるものは瞑想という。あるものは直感という。パウロみたいに突然の回心というものもある」

「なるほど、都市の公共交通網みたいだな」

「なんだい」

「東京駅から新宿駅に行く方法は沢山あるということだよ。JRもあれば地下鉄もある。バスもあるというわけだ。タクシーで行ってもいいし、マイカーでも行ける」