小林秀雄は漱石でも鴎外でも一行でかたずけてしまう。数行ないし複数回の短評があるのは田山花袋や島崎藤村などである。それに比べてジイドに対してかなりのページ数をついやしている。とくに贋金つくり(つかい)には彼なりの解説に費やしている。
その贋金つくりであるが、小生はまだ半分くらいしか読んでいないが得意の途中書評だ。べつにジイドに限らないがフランスの小説には頭でっかちで、こましゃくれた饒舌の「とっちゃん坊や」が出てくる。イギリスやアメリカの小説ではあまりでてこないようであるが。彼らが出てくると「またかよ」と引けてしまう。年齢を推測すると16-18歳ぐらいの高校生で*ランドセル*を背負っている。それが屁理屈をのべつ幕なしに掃き散らす。贋金つくりではオリヴィエとかベルナールとか。
小林は私小説の概念が、そもそもどういうものであるかについては一行も書いていないから推測するしかないのだが、私小説論でジイドのただ一冊の小説に膨大な文字を費やしているから日本の私小説と対で考えていることは間違いない。ま、その違いを述べるということだろう。
基本的には記述者つまり作者の心境を綴るということに落ち着くようだ。日本の私小説では述者は作家だけらしい。ジイドの場合は述者が複数いる。ジイドの言葉を使えば、「なぜタテだけなのか、ヨコもあるじゃないの」ということだろう。小林の言葉でいえば「社会性」ということかもしれない。
昔からこういう小説はあった。「トリストラム・シャンデイ」だってそうだし、いわゆる「意識の流れ」派だってそうだろう。もっともこれらは単視点かもしれない。
ジイドの場合はそういうことだけ、あるいはそう言うことを中心としたということか。彼自身は「純粋小説」と言うことばも使ったらしい。この場合作者自身のモノローグと作り上げた第三者登場人物のモノローグが混在する。そうして作者のモノローグ部分はジイドの公表されている性生活をなぞっているようだ。この点では日本の私小説と変わらない。それはなんだっていうのか。ま、同性愛だが、ジイドの側からいえば少年愛だな。
*ランドセルは何語か。オランダかベルギーの言葉あったような記憶があるが確かではない。ちなみに英和辞典ではSCHOOL DAYPACKとあった。リュックサックだな。日本の高校生もリュックサックを持っているのが多いが、個性的だ。ランドセルと言うと小学生が背負っている特定の型をいうようだ。これを日本の中学生や高校生は背負っていない。
なにを言いたいかと言うと、原文ではランドセルなのだろうが、フランスでは高校生でも日本の小学生のようなランドセルを背負っているような印象を与える。実態がそうなら訳語に文句を言うこともないのだが、どうなんだろうか。