会社を辞めてからしばらくは電話に悩まされた。同期入社の西川からある夜電話があった。かれとは同期入社とはいうものの、ほとんど話したことがない。最近5年ほどは共産圏の駐在員をしていて日本に帰って来たばかりである。電話で「西川です」と言われてもしばらく誰か分からなかった。声も識別できるほど話したことのなかったのである。
「社内報で見たけど会社を辞めたって、いま何をしているの」と言われてなるほどと思った。今度同期会の幹事になったそうである。さっそく俺の送別会をやろうという話だった。同期のほとんどは俺の憎む第二組合員だったし、会社を辞めた事情もあって俺はその話を断った。西川はしつこく送別会にこだわったが、あきらめて「今は何をしているの」と聞いて来た。会社を辞めたと聞くと、大抵の人間は今何をしているのか、と聞く。なにか勤めていないと悪人のような気分にさせられる。
そう聞かれるたびに俺はうんざりするんだが、いつも用意しておいた答えを言うことにしている。「毎日が日曜日さ」
「えっ、えっ」と西川は理解出来ない外国語を聞いた時の様に反応した。これもどいつもこいつも同じだ。送別会と言ったって、俺が今何をしているか根掘り葉掘り聞き出すのが目的に違いない。それも彼らの上にいる陰謀家の先輩の意を受けてのことだろう。そんなところに出て、言葉遣いに注意しながら、無難な言葉を選びながら酒の相手をしながら飲んでもうまい筈がない。
なんだか不得要領のような印象を受けたような雰囲気のうちに西川との電話は切れた。それから昼間も夜もかなりの頻度で電話がかかってくる様になった。電話に出ると相手は無言である。最初のうちは「もしもし、どちらさまですか」と一々応対していたが、相手は押し黙ったままである。同一人物かどうかも分からないが、どうも俺の所在を確認しているらしい。働いていないというが昼間は内にいるのかどうか、ということを探っているらしい。あるいは嫌がらせ電話か。とくに相手の心当たりはなかった、一カ所を除いては。
そこで俺もバカらしくなって考えた。無言電話に生活のペースを乱されてはたまらない。こちらは大望を抱く、大事な仕事?を抱えているのだ。そこで留守番電話に切り替えた。留守番電話の使い方については大分研究した。その頃は留守番電話の機能がかっての電卓の様に目覚ましく進歩しつつあった時代である。
その内に、相手が電話番号を通知してこないと着信を拒否する機能が出て来た。それでもかけてくる相手にはこちらも無言で電話をかけ直して相手がどんなやつか試した。それでわかったのだが、無言電話をかけてくるようなヤツは大体電話を受けても自分を名乗らない。なにも話さない。相手が話すのを待っている。だからにらめっこをするみたいに、長い間双方が無言で電話を見ている。大体そう言う物だとわかってからは、そんなことも止めてしまった。
勿論まともな用事をもった電話もかかってくる。そうするとメッセージを残して行く。それで分かったのだが留守番電話に分かりやすい伝言を吹き込む人は非常にすくない。慣れていないのだ。あれは技術だ。アナウンサーの様に言っていることがハッキリと伝わる人は少ない。慌てるのか伝言の最初で自分を名乗るところで明瞭に話せる人はまれである。そして大体において話し方が慣れないのか早すぎる。声が小さすぎる。
そこでコールバックするのだが、まず何を伝言して来たのか一から確認することから始めなければならない。