運ばれて来たコーヒーはファストフード店の多くがそうである様にぬるく薄く不味かった。ウサギの糞のように細いシュガースティックを破り砂糖を3グラムコーヒーに入れると付いて来た耳かきでかき回して二人はコーヒーを飲んだ。
老人は胸ポケットから葉巻を取り出し吸い口を噛み切ろうとしたが、ふと気が付いた様に「禁煙でしたな」というと火のついていない太い葉巻を指の間で回した。
「この雨はすぐに止むでしょうか」と三四郎は老人に聞いた。先ほどの話から老人は龍神をコントロールしていると思ったのである。
老人は驚いた様に彼を見た。「さあ、どうだか分かりませんね」というと長い顎を撫でた。「アタシが操っているわけではないんでね。勝手についてきて振り切れんのです」
「まるで俺の自我みたいだ」と平敷が言った。
「ジガというと」と老人が反問した。こう書きます、と彼はテーブルの上に濡れた指で書いた。
「ふーん、どういう意味ですか。昔は無かった言葉だ」
平敷は四苦八苦して意味を説明したが老人にはチンプンカンプンであった。
「最近よく聞くストーカーみたいなものですか」
「そうかもしれません。振り切ろうとしても乞食犬の様にどこまでも付いてくるんです。振り切れないんです」と平敷は答えた。
あなたもそうですか、と老人は三四郎に聞いた。
「わたしには自我なんて有りません」と三四郎は答えた。私には自分の影もないんですから、と付け加えた。
「おかしな言葉が出来たものだ」と老人は憮然として呟いた。
「失礼ですが昔と言うと何時頃ですか。終戦直後ぐらいかな」
私は文政のひのと・ゐの生まれでさあ、と老人は教えた。今度はふたりがぽかんとする番であった。老人はさっき平敷がしたように指を濡らしてテーブルに丁亥と書いた。
三四郎はバッグの中から歴史手帳を取り出して付属の年号表を調べた。
「文政十年ですね。1827年生まれですか」と呆然として老人の顔を見つめた。