穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

第D(13)章 オヤジが死んだ

2016-09-02 08:09:40 | 反復と忘却

92歳で天寿を全うした。痴呆症になる半月ほど前までは毎日外に出ていた。痴呆症が分かったのは死ぬ半年ほど前である。もっと早くから症状は出ていたのかも知れない。家族と会話がないから正確に痴呆症が何時発症したかを判断することは難しいのだ。 

家族と会話がないから気が付かなかった可能性がある。行動や顔つきを見ているだけではとても最後まで痴呆とは気が付かなかった。オヤジはすぐれて知的人間だったから、痴呆の傾向に自分では気が付いていて、それを隠す様に威厳のある態度を取ろうとしていた可能性もある、と俺は後で気が付いた。

気が付いたのはお手伝いの報告からで、口から泡を吹いているから見たら、洗剤をジュースと間違えて飲んでいたという。言うことがおかしいとかの報告も外部の人間から聞かれる様になった。また、昔の同僚の葬式に行った帰りに道に迷い、警察から連絡があったりして分かったのである。

近所の医者に見せたらどこも悪い所はないという。板橋かどこかに老人病の専門の病院があるので診断してもらいなさいという。父を連れて行こうとしたら、検査されることに大変な恐怖を示した。おそらく、その頃は正気と痴呆状態が交互に現れていたのだろう。診断をくだされることに恐怖を示した。なんとか説得して父を専門病院に連れて行った。

医者がやったことはアンケートを取るみたいなことだった。「今日は何月何日ですか」てなことを医者が父に聞く。父は照れ笑いをする。分からないのだ。見当識というらしい。同じような質問をいくつかした。生年月日は、とかもう忘れてしまったが、その類いの質問であった。

痴呆症がはっきりとするのに平行して肉体的な健康も衰えて行った。頑健な体質で晩年までさまざまなスポーツをしていたが、痴呆症というCPUの故障が肉体的な健康を損なったらしい。

肉体と精神は平行していくのが一番良い。仲のいいと友達のようでなければならない。成長するのも衰えるのも同時並行的なのが自然だ。言ってみればバディ・フライトだな。編隊飛行だ。衰えるなら同時進行が一番本人にとってはいいようだ。中には五十代、六十代から痴呆症になり、20年も30年も生きている人がいる。最近はそういう人が多いようだ。 

逆に最後まで明晰な精神を持っていても、癌等で中年から肉体が衰えて行く人がいる。昔だったら肺結核というところである。天寿を全うして、最後まで精神的にも肉体的にも健全な人生が理想ではなかろうか。

現代では人間(とくに医者)が様々な作為を加えるからだろう、肉体と精神は雁行しなくなった。これ以上の不幸はない。ことは成長期にも起こる。肉体的に爆発的に成長するが、精神は幼稚園なみというのがいる。こう言う連中が非行少年のほとんどである。まれに逆のケースがある。精神が急速に成長するのに身体がついていかない。俺の場合という訳じゃないがね。

その意味では父は仕合せな一生を送ったまれに見る例だったのだろう。俺が退社してから10年目だった。

 


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