穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

論理哲学論考は詩的な文章、ウィトゲンシュタインの火かき棒(六)

2018-09-26 11:41:17 | ウィットゲンシュタイン

 このシリーズのどこか前に書いたが原文に当たらないといけないという文章の件。その時は記憶で書いたが、改めて日本文と英文で読んだので印象を少々。

  日本文は岩波文庫の野矢茂樹氏の文章である。英文のほうは何種類もあるとも思えないのでどの版と言うのは重要ではないと思う。ドイツ語を英文に訳すに当たっては、Wから何回もダメが入ったようで、ようやく現在の文章に落ち着いたということだ。つまり英文はWの校閲を経ていると考えてよい。

  さて、今回改めて拾い読みした印象はこの本は詩的文章が多い。中盤の論理学的というか、まったく技術的なところはそうでもない。性質上詩的に書いてもはじまらないからである。前半というか冒頭と終わりのほうは詩的な表現が多い。よく伝えられている逸話で論理実証主義者との会合で議論を始めようとすると、Wはみんなに背を向けて壁に向かってインドのタゴールの詩を朗誦したという。これはあちこちに出ている話だから本当なのだろう。

  さて前置きはこのくらいにして、6.522であるが、野矢訳では

「だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である」

英文では 

There are,indeed,things that cannnot be

put into words.They  make themselves 

manifest.They are what is mystical.

 野矢さんはindeedという思い入れたっぷりの挿入語を適切に訳していない。「もちろん」では不適切である。この語は厳密(言語分析流)にいえば不要の語であるが。このWの思い入れは何らかの形で訳すべきではないのか。

Put into wordsもほかに訳し方があるように思う。

Make themselves manifestを「示される」と訳しているがどうだろうか。むしろ「現れる呼びもしないのに」、という感じではないか。ちなみにこの表現には幽霊が表れるという意味がある。

 これはイチャモンではありません。本質的な問題というべきでしょう。

 


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